大富豪の息子が"キリスト"を題材にした映画の初主演に挑む背景で、出会い系アプリに没入し、身を滅ぼしていくというのが物語の骨子。
前述通り"キリスト"を主題にした映画の製作中だったり、主人公の恋人の名前がエバ(イヴ)だったり、イヴを惑わす(禁断の果実を食べさせる)ことを彷彿させる蛇が登場したり、アプリで出会う女性の名前がマリアだったりと至る所に聖書を感じ取ることができる一方で、オフィーリアという女性が出てきたり、アプリの相手の姿は見ることができずまるで亡霊のような存在であることからシェイクスピアの『ハムレット』をも彷彿させる本作。
『聖書』と『ハムレット』をミックスさせ文学的にインテリジェンスな作品を作りたいという思惑を感じることはできますが、これらの文献から借りたのは表面的なプロットと登場人物の名前だけだったかなと。
ミックスしたことで生まれるオリジナリティのようなものはほぼ無く、登場人物たちも先の展開のためのプロットに操られているようで生を感じることができませんでした。
"先の展開のためのプロットに操られているよう"というのは、例えば本作では主人公が出会い系アプリに登録することが物語を動かし出す重要なイベントとなるわけですが、出会い系アプリに登録する理由というのがとても不条理な気がするのです。
恋人に「論文のために登録して」と言われ渋々登録するわけですが、論文のためになる理由は特に説明がなく、全くピンとこないんです。
本作には上記のようなピンと来ない展開がとても多く、それゆえに"先の展開のためのプロットに操られているよう"と感じたわけでした。
表面上だけ高尚な文献で固められたハリボテのような映画だったなと思います。