ラウぺ

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のラウぺのレビュー・感想・評価

4.3
安田講堂事件の約4ヶ月後の1969年5月13日に行われた三島由紀夫と東大全共闘の討論会の模様を巡るドキュメンタリー。

安保闘争やベトナム戦争の反動による世界規模での反戦運動の潮流を受けた全共闘と皇国主義者としての三島はともに極端な左翼と右翼の両端にあるといってよく、この討論会でどのような議論が行われたのか大変興味深いものがありましたが、観る前は双方ともあまりに極端な思想的ギャップの大きさから建設的で噛み合った議論は期待できないのではないかと思っていました。
もともと三島の政治的スタンスは個人的に到底受け入れることのできないものであり、全共闘や学生運動そのものもどう考えても完全に廃れた理念先行型の左翼運動であることからこの討論には歴史的な時代の定点観測的意義しか見いだせないだろうと考えていたのでした。
ところが、冒頭三島が挨拶と自らと全共闘のスタンスなど総論的な語りを始めるところから三島の弁舌の鮮やかさに引き込まれました。
会場の入り口で「近代ゴリラ」と揶揄するポスターを見たことなどに触れ、お互いの「反動的」な立ち位置についての共通点に触れ全共闘を持ち上げつつ、彼我の立場の違いについて指摘。単身敵地に乗り込む気概を見せて真剣な議論を望む姿勢を鮮明にします。
また、ここで自ら行動を起こすときの「決起」について語る三島の真剣さは、翌年の市ヶ谷での割腹事件を既に思い起こさせ、戦慄を覚えるのです。

いくら相手が東大生とはいえ(三島も東大法学部卒)年齢に倍も開きのある齢44の世界的文学者と20歳そこそこの学生が対等に議論を進められるはずもないのですが、三島は年長者として学生らを罵倒したり正面から論破するようなことはせず、相手の話を受けてから自説を展開することで、対等な立場を守ろうとし、議論が成立するように注意深く配慮しており、大人の対応を見せます。
議論は全共闘で主導的なポジションに居た芥正彦の乱入によって空間と時間といった字義遊びとでもいうべき抽象的な観念論に流れ、双方の具体的な政治的スタンスの違いを議論する前段階で空虚な議論を繰り返すのですが、そこでも実践を重視する三島のスタンスは明確で、思考先行で目前の問題に立ち向かわない学生との成熟の差を見せつけます。
その後議論は天皇制についての議論となり、双方の政治的スタンスにようやく具体的な違いが分かりやすい形で議論されることになります。
日本国民であることに価値を見出さない芥ら全共闘の学生に対し、日本国民であることで良しとする三島の立ち位置は明確で、断固としたもの。
ここで三島は学習院を首席で卒業した際に昭和天皇が3時間に亘り微動だにしなかったこと、銀時計を賜ったことなどのエピソードを披歴。彼の皇国主義者としての原点を垣間見るのでした。
アナーキーな左翼学生を相手に右翼としての情緒をストレートに打ち明ける三島の正直さはある意味あっぱれとも言えますが、これが相手に伝わるとは本人も思っていない様子が窺えるのが面白いところ。

まったく正反対な立場の学生たちを相手に議論を楽しんだ様子で最後の締めを語る三島。
既存のものを壊して成し遂げようとする部分にお互いの共通点を見出し、一種の親しみを覚えた様子でしたが、「三島を論破して立ち往生させ、切腹させる」といった当初の意気込みから融和ムードが醸成されてしまうあたりからしても、全共闘側との格の違いは明らかなのでした。

映画は当時の全共闘と楯の会の会員、ジャーナリストや評論家のコメントが入り、また市ヶ谷での割腹事件からそれぞれの関係者の現在のスタンスなど興味深い語りとタイミングの良い解説が織り込まれ、当時の事情に明るくない人にも分かりやすい工夫が見られましたが、当日の白熱した議論の流れを感じたい、と思う向きにはややリズムの悪い構成なのではないかと感じました。

しかし、今では考えられない広ダイナミックレンジな左翼vs右翼の議論であり、もっと正面から具体的な議論を戦わせて貰いたかったという気もするものの、知的好奇心を喚起する議論の応酬は大変エキサイティングで予想以上に楽しめました。
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