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ラスト・ショーのmasatのネタバレレビュー・内容・結末

ラスト・ショー(1971年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

奴は、やはり、裏切り者だ。
悦びを教えてくれた女を捨て、自分を慕う弟の様な少年を捨て、映画館を捨て、街を捨て、魔性の女に拐かされて、旅立とうとした。だから、神は、そんな奴に死を断じて許さない。かけがえの無いない存在が消えた瞬間に、奴は悟った。車に乗り込み、どこまでも続く道へ飛び出し、暴走する。さあ、自死の瞬間だ!と思いきや、徐にブレーキを踏み、すごすごと引き返すことしかできない。帰った町は、本当の姿を見せていた。朽ちた、ゴーストタウンの様な。

ラストショー、それは、青春の日の終わりでもありながら、アメリカン・ニューシネマの終わる1971年、アメリカそのものである、

町は、かつてこの地を切り拓いた大きく強い父、カーボーイという支柱を失った。その時、町が崩れ去る最初の音が聞こえる。
気の良い陽気な青年、次の時代を作り出そうとする男は“朝鮮”へ行った。そして、ホウキ一本で街を掃除し、来る日も来る日も掃き続けた“ナインティーン”は、もういなかった。

町が崩れ去る音が静かに響き、目の前の街が廃墟の様だったと気づいた主人公は、もう自分の周りには誰もいないと悟った。そして、最後に縋り付いた先に待っていた言葉とは?

1971年現在のアメリカの全てに決着をつけた監督ピーター・ボグダノヴッチの手腕は見事。
しかし、ラストショーはラストショーでしかなく、リ・スタートショーはまだ見つかっていない。なので、アメリカン・ニューシネマは一旦ここで死ぬのである。同年の『バニシング・ポイント』の物理的破裂の衝撃と、『ジョニーは戦場へ行った』の心理的説教の衝撃と共に。しかし、同年、歳の差60歳のラブストーリーや“性交”に的を絞ったベテランの力強い萌芽が芽吹き出していたのである。アメリカン・ニューシネマの第二幕は始まっていた。
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