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SHELL and JOINTのCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

SHELL and JOINT(2019年製作の映画)
4.2
【寄稿転載:シャーレの中で蠢く獣】
2020/3/27(金)よりシネマート新宿で公開される『SHELL and JOINT』を平林勇監督のnoteでレビュー寄稿する条件で観させていただきました。監督から許可をいただき、noteに書いたレビューをこちらにも転載します。興味ある方は、是非シネマート新宿に足を運んでみてください。

「人間は、天使でも、獣(けだもの)でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう。」
これはブレーズ・パスカルが『パンセ』の中で語った言葉である。人間は、自然界の頂点に立っていると思い込み、本能的に欲を満たす動物を見下すようにして自分たちと比較する。そしてその比較を元に思考することで理性的な自己を捉えようとするのだ。しかし、本能に抗おうと本能を正当化していくことは、残念ながらグロテスクな本能を生み出してしまう。それが性癖とも言える。

さて、『劇場版 しまじろうのわお!(2013〜)』シリーズを手掛けてきた平林勇監督が手掛けるこの2時間半にも及ぶシュールな思考実験は、かつて今村昌平が本能のあるがままに生きる女性を顕微鏡を覗き込むようにして捉えた『にっぽん昆虫記(1963)』たる世界を呼び覚ます代物であった。
カプセルホテルのフロント、サウナ、研究所でひたすら性についての会話をする者たちをフィックス撮影で捉える。家具や壁の輪郭を強調し、エドワード・ホッパーから翳りを取っ払ったような世界は我々人間の話であるにもかかわらず、どこか宇宙の彼方の物語に見える。まさしくシャーレの中で蠢く微生物を顕微鏡で覗き込む体験を観るものに与えるのだ。

顕微鏡を覗き込むとカプセルホテルのフロントで節足動物に取り憑かれた男・新渡戸(堀部圭亮)がカニムシについて想いを巡らせている。「地球上で一番、形が美しい生物なんじゃないだろうか?」と頭の中で恋文を書いてしまっているぐらいにカニムシに愛を捧げている。そんな彼は、カニムシが数mm程度の大きさしかなく、誰からも認識されてはいない上、自ら進んでその形を勝ち取ったわけではない真実に少し落胆している。自然の淘汰の流れにすら入れない様にモヤモヤしているのだ。

彼には一緒にフロントで働く同僚がいる。坂本(筒井真理子)だ。客がなかなかやって来ないので暇なフロント。新渡戸は彼女にちょっかいを出し始める。「進化」についての意見を伺おうとするのだ。しかし、彼女もまた曲者で、彼の質問をのらりくらりと避け、会話の手綱はガシッと彼女の手に握られてしまう。「新渡戸は《死にたくない!》という気持ちに保険をかけているんだよ」と見透かされてしまう。そして、彼は彼女を褒めて気を引く作戦に出るも、何者かになろうとして生きた証を得ようとしているのでは?と、これまた一本を取られてしまう。

そんな彼女もなかなかの曲者だ。彼女は自殺未遂を頻繁に行っており、その原因はバクテリアに脳をコントロールされているからだと思い込んでいる。かつて、一週間、自殺をするために樹海を彷徨ったことがあったらしい。5日目にして死の恐怖に直面する彼女。死体と対峙する彼女。彼女は、その死体の骨を割り、中からドロッと出てきたモノをジュルッと吸い尽くしたと彼に告白する。節足動物マニアな彼は、そのディティールに欲情し始めるのだ。

本作は、幾つかのサンプルを次々と提示してくる。群像劇かと思いきや、それぞれのエピソードはほとんど交わることがない。カプセルホテルにおいて各カプセルは、個々の縄張りであり、他のカプセルに干渉しない。そうです、本作で散りばめられている物語はカプセルホテルのカプセルと同じであるのです。また、微生物を培養・観察するシャーレとも同じだと言える。こうして我々はラボラトリーに来た研修生として、シャーレで蠢く人間模様を観察することを強いられるのだ。

本作で流れるルールを強調する存在がある。それはカプセルホテルに宿泊しているフィンランド人女性だ。日本映画においてフィンランド人が登場することは非常に貴重だ。「YOUは何しに日本へ?」と尋ねたくなることでしょう。しかし、彼女はカプセルの中に存在するだけで、会話すらしないのだ。確かに、坂本は「彼女から死の香りがする」と語り、彼女が物語のキーになっていることを示唆するのだが、結局彼女は物語にほとんど関与して来ないのだ。この異様な彼女の存在感が、この人間観察映画に対する好奇心を誘発するスパイスとなっている。

そのスパイスを背に、処女なのに妊娠をして川に5mぐらいの物体を流した話とハリガネムシに寄生されたカマキリを結びつけて興奮する男。他人のセックスにどうやって自分の精子を介入させるのかを真剣に考える研究者。舞いを踊り謎の玉を辺りに散らす不審者などの挿話が所狭しと並べられていく。終いには、昆虫にまで観察の範囲が及び、ゴギブリ、ダニ、ハエが人間が定義した《害虫》について白熱議論し始める。他の映画であれば、互いのシャーレの中身を一箇所にブチまけ、混沌を生み出すことでしょう。しかし、それではこの映画の外側にいる我々まで《けだもの》になってしまう。故に、いつまでも平行線上にシャーレを並べて、顕微鏡に通していくだけに留めているのだ。

生と死と性について昆虫を酒の肴に語ることで、己の歪な本能こと性癖を正当化しようとするのだが、それはパスカルが語るところの天使のまねをしようとして獣になった成れの果てであることだと捉えるには冷静にシャーレを積み重ねて行く必要があると映画は静かに語っているとも言えよう。
我々はシャーレの中で蠢く本能に抗い獣になってしまった人の戯画を通じて、理性とは何かを知るだろう。しかし、ひょっとするとそんな我々を誰かが覗き込んでいるのかもしれません。

平林監督のnote→https://note.com/hirabayashiisamu/n/ncb1cae7dec3f
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