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花のあとさき ムツばあさんの歩いた道のニューランドのレビュー・感想・評価

3.8
☑️『花のあとさき』及び『あのこは貴族』『JUNK HEAD』▶️▶️
昨年からずっと気になってた、NHK特集だかの劇場版を休みの日に観にいくが、つづく2本が、傑作『グッド·ストライプス』の監督の待望久しい新作、個人製作人形アニメ労作とその場で知り、夕方まで(川越も物珍しく)居残ることにする。
元は、テレビにおける、かなり長い合間を置いての連続もので、都度期待して且つそれ以上の強い充足を得ていた。自分が生まれ育った環境と近いということもあるが、人間が生きていく中で感じてゆく、手離してはならない、人間も含む存在するものを包み繋ぐ空気に対する感触·意識が、人為がでしゃばらない世界との調和の中で感じられた為か。それからすると、過半は観た記憶がある劇場用の本作は、小林ムツさんが84歳で亡くなってから10年近く、2年前にはより生産性に結び付いていた部落の中心的で最後の住人、新井武さん夫婦も亡くなり、住民は0となり、が序終を括っていて、いくら所縁の者ら戻っての祭りとかを再現しても、拭いがたい喪失感は動かせないし、テレビ版には仄かに中心にあった、メンバーが老いたり、病や怪我で一時離脱しても不変·普遍の何かが流れていた安心感·無駄を含んだ柔かさとはすこしズレたものとなっている。
とはいえ、養蚕と炭焼の出荷で主に栄え、人口も100人近くを抱え、運び出す道を村人で作り上げてたのが、外国産が入ってくると価格が折り合わず、更に畑を潰しての大きな公道が引かれると、町へ車で降りての楽な勤めが増えて、居住地も移り出し、土も堆肥を入れぬと痩せて塞き止めないと流れやすいベースが低い秩父の奥の地の、ダムのはるか上の山斜面の部落の楢尾は、次第にさびれ、撮影班が偶然知り合った平成13年の時点では村人は10人位、土地に愛着の老人だけに減っていた。実際親交の中心のムツさん夫婦は、10年位前から、畑を潰しては色とりどりの樹木を植え、「山に全てを返し」ての身支度を始めており、その後でもこの地に旅人が足を止め、親しみ楽しんで欲しいと願うに続く行為を進めていた。それは決意·諦観などではなく、あくまで自然·当たり前の行為として。
以前は月に一回は祭という風に常に集まりがあったが、 祭りは戦争中の担い手の出征以来中断のままだし、戦後進めた杉の植林は自然には必ずしもよくなかったし、地主が離れて荒れっぱなし危険をムツさんの夫公一さんが診て廻ってる。しかし、冷たい湧水を朽ちにしながら、村人の一人が言うように、基本「好きでなければ、この土地にはやはり残っていない。自分が全てを決めれる自由には替えられない」。 ムツさんも姑さんの直伝のうどん他料理を皆に振る舞う「楽し」さを満喫もしてる。
やや広角での狭い道·坂を追いて歩いていったり、細かな生活や労働の工夫·愛情を捉えてくアップや角度の丁寧さ、何気の会話の果てなく続く穏やかな時空の味わいあるやり取り、そして今の無人の村等との時間のモンタージュ、等が組み合わされてく。なかなか見事な余韻を持つが、都度リアルタイムで放送されていた時の、恣意のない自然体のニュアンスが懐かしく思えた。
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『あのこは~』。前作を越えたかどうか、別の意味でこれは、今時珍しい硬派?の傑作である。映画手法や俳優の力に頼らない真の、画策され組立てられた純粋なものだけが核にある、映画の快楽にもおもねる事のない、社会や表現へのコミットを突き放した、ささやかも毅然と屹立した、個性ある作風すら感じさせない存在がある。少なくとも皮肉な喜劇が真の歓びを紡ぎだしもした、快適な進行のリズムがあった前作に対し、これは進行がまるで齟齬·チグハグを拭い去ることがない。製作費の為か、意図的か、画面がくすみ色のりもよくない、カラーなのにモノクロめの貧しく気を惹かないもの。カットも切返し·角度変·どんでんらの対応が、隙間か冷めるものがあり、その不味さがより高いレベルのコントロールを証明もしてる。終盤、偶然再会で、振り合う手の幅を拡げていったり、バイオリン演奏会を示し合わさずも同じ視界に共有し合っていたり、するシーンも決して盛り上げたりしない(逆に余計冷静に響いてくる)。
東京と地方、政治家や医者やその家庭にも手が届くルートに乗った者と·職業も学歴も家族も友人もグニャグニャ定まらず知らぬ方向に流されてく社会的に守られていない者。「階層」ということの意識が断絶というパターンを呼ぶのではなく、平板な現実に徴し、視角と折合いを与えてくる。地方から受験に勝ち抜いて出自階層を感じざるを得ない大学に入り、経済事情からドロップアウトし、横道の水商売に入り、戻る以上の足掛かりを得、また境あった大学生旧友とも忌憚のない関係にスムースに入れる、上記の後者の側が役者としては初めて見た水原希子が演じている。「私達の東京は現実のものでなく、私達の夢が勝手に作りあげたもの」「田舎にずっといたら、やはりそこのレールに乗るだけだったろうが、夢の為には戻った田舎で、起業を」「初めてみる東京の光景? 階層で視る場はまるで違うものに。」「えっ!? 夢がないの」 意志なく越境·交差の生き方は、ひとつに留まった生き方にも、決定的な跡を与えてく、いろんなパターン·個別性で。
映画は、数章に分けられ、二つの人生、各々の同性のスタンダードを少し外れた影響者·協力者、そして2人を繋ぐ共通の異性の存在、2人の邂逅と殻を染み出る交流、その影響もある自分の生き方の自分による決定を、映画的ケレン·滑らかさと無縁に要素を積み上げてくだけである。水原を含め誰も、名演·力演·リアリティ等とは無縁に、表現者としては無欲にただ、いるだけの佇まいが素晴らしい。
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『JUNK~』。知人で私より年配だが、1日最低4本を365日毎日休みなく、会場を走り回り、帰宅後はDVD·VHS·BSCS+関連書籍を読破、を10年を超えて、欠かしていない人には恥ずかしいが、1日3本目は休みの日でも体力的にきつい。年齢的に見通すちからがない。それでも、汚し方も堂に入ったリアリティ·立体感(光感·ボカし·ネガ風·ブレOL·手描き線面も)、キャラと美術の造型·その変幻と情報量·ユニークさ·奇々怪々さ、詰め込んだ構図の密度·パースペクティブ角度とカットの臨場感·生命力溢るる細かさや移動力、それらの確かにアマプロ超えた仕事量·努力の詰め込み·結晶度には目を見張るがあるも、それを潜って突き抜けくるものは弱い。残った可能性の地下世界の労働の為に作った 人工生命体の多様勝手危ない進化·繁殖力の凄み·ユニーク、自らは生殖能力失ってそれらを危険な中探る、フード被った人間らと、中間の手段·手立てとしての地上の「神」とするツルッとしたのや·明らかな寄せ集めロボットの·バラバラ分解や再生組合わさりの有り様(よくは分からないが、後で読んで整理し直すと、このツルッ·包みロボット風が送り込まれ一旦壊れ再建の「人間」らしく·地下では「神」崇めも·で、多くの人らしきが造られたコミカル一般労働生命体、怪物らしきがそれらの大元産み出しベースで怪異変異進化?形らしい)。
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