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ベルリン・アレクサンダープラッツのbackpackerのレビュー・感想・評価

4.0
【備忘(Filmarksオンライン試写会にて鑑賞)】
エキゾチックで極彩色な、アンダーグラウンドの世界。
そこでは、複雑さと単純さが渾然一体に混ざり合った人生が描かれる。
それは、決して遠い世界ではなく、誰しものすぐそばにある。
普通と異常は表裏一体なのだ。
男は善人になりたかった。
真面目に、普通の人間のように生きると。
掛け違えたボタンは元に戻らない。
投げ入れた石は波紋を広げていく。
男は善人になりたかった。


本作は、アルフレート・デーブリーン(1878〜1957)がベルリンの下層社会を舞台とした小説『ベルリン・アレクサンダー広場』(1929年)を原作としているが、欧米各国を吹き荒れるポピュリズムの嵐の中で、難民が社会問題として顕在化した現代ドイツへと設定を置き換えている。
なお、この小説は既にライナー・ヴェルナー・ファスビンダーによって、約15時間ものテレビ映画として映像化されている。

原作未読、映画版未鑑賞(15時間の超大作ともなると、どうにも腰が引ける……)の身で、最新リメイクたる本作を鑑賞した者の備忘メモであるため、悪文であることはご容赦願いたい。


本作は章分けがなされている作品だ。
大まかな内容を忘れぬよう、各章での出来事を以下に記す。
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〈冒頭〉
全ての始まり。フランシスが海を渡り、ドイツへと流れ着く。
そこで彼は、イーダという女性を失う。(後に、これこそが彼の背負った最大の罪であることが明らかになる。)

〈チャプター1(4:59)〉
主人公フランシスの置かれた状況と、これから彼の身に降りかかる3つの"つまずき"が示される。

〈チャプター2(23:58)〉
狡猾で猜疑心が強く、病的なる愛の化身・ラインホルトとの生活。それはフランシスの心を蝕み、誓いを溶かす魅惑の日々であった。そして新たに生まれ直す。フランシスから、フランツへと。しかし、彼はまだフランツではない。新生はまだ、始まったばかりだ。

〈チャプター3(1:09:11)〉
最初の裏切りの後、物語の主たる語り部ミーツェとの出会いと、ささやかな愛の日々。しかし彼は、人生に寝食以上のものを求めた。

〈チャプター4(1:46:26)〉
変貌。彼の顔つきは変わり、己が力に酔いしれ、魅了され、新生した。それが途方もない代償を求めるものであったことに気付かぬまま。その純粋さは亀裂を生み出し、愛の日々に魔手を招き入れたのだ。

〈チャプター5(2:43:37)〉
再びの裏切り。究極の絶望。死神は長くゆっくりと歌い始めた。そこで彼は、自らの罪と対峙し、その無情さに慟哭する。

〈エピローグ(2:54:05)〉
結末。赦しの果て、自らに残された奇跡と対面する。その娘は新しい人生、新しい世界だ。
アレクサンダー広場に彼はいる。
噴水に腰掛け、テレビ塔を見上げる。
悔恨の果てに、彼の目には何が映っているのだろうか……。
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以下には、この3時間の大作(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督と比べれば、実に可愛い時間ではあるが)で印象的なシーンと、本作の感想を残しておきたい。
特に、本作のキーマンであり、真の主人公でもあったラインホルトについて記載する。

【作品感想】
チャプター2の強盗シーン(1:05:16)は、その後の物語を左右したという意味で、大変印象深い。
(本作にいくつかあるターニングポイントの一つである。)

ラインホルトが抱える鬱屈とした愛憎は、フランツとの決別により深い奈落へと落ちていく。
ラインホルトは性的に倒錯しているが、フランツに向ける想いがホモソーシャルからホモセクシャルへと、確たる昇華がなされたのは、このシーンがあったからこそだと思う。
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車の中での撮影ながら、車内をグルリと1周する。カットを割ることなくだ。
GoProのような小型カメラが普及して、このような撮影はより容易になったのだと実感した(『トゥモロー・ワールド』にて、アルフォンソ・キュアロン監督が車の屋根を切断して撮影した長回しのように、大変な準備がなくとも、車内をぐるりと取るくらいなら、最早さして難しくないのだ)。
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ターニングポイントと言えば、作中最も決定的なものの一つとして、チャプター4の2:05:15から始まる、難民の黒人たちを麻薬の売人集団へと勧誘するシーン(私は勝手に『「俺がドイツだ」のスピーチ』と呼んでいる)が挙げられる。

『「俺がドイツだ」のスピーチ』は、そもそもその始まりからして素晴らしい。
(前のシークエンスから間断なく地続きで変わっていくため、始まりと言っていいのか怪しいが……。)

始まりはこうだ。
ミーツェの下へと去っていったフランツと電話するラインホルト。
引きの画面でラインホルトの部屋全体が映ると、家具は完全に打ち壊され、その残骸の中に、彼は一人で座っている。
孤独、嫉妬、憎しみ、友情、そして愛。それらの感情がめちゃくちゃになって混ざり合っている、激情のメタファーだ。

その絵に重なりながら、フランツのスピーチが始まる。
最初に、ラインホルトがフランツ達を勧誘する為に現れ、スピーチをしたのと同じ部屋・同じ位置での演説だ。
最初は、フランツのスピーチは、周りの黒人達の心には何ら刺さらない。ただの揶揄いの的だ。
それを見て、ラインホルトは安堵している(髪型の変更も素晴らしい)。
フランツの打ちのめされる姿、上手くいかない姿を見て、「コイツにもできないことがある」と喜び、笑みを深めるのだ。

しかし、フランツが手元の台本を見るのをやめ、自分の言葉で喋りだすと、状況は一変する。
周囲は聞き入り、共感し、納得していく。
巧みな話術、的確な所作、ここぞという時に切り札(札束)を見せ、アジテーションしていく。
ラインホルトには致命的に欠如しているものが、目の前でまざまざと見せつけられる。

カリスマだ。
狡猾で矮小で背中の曲がった自分にはない、圧倒的なカリスマだ。
このカリスマを前にして、ラインホルトは静かに部屋を去る。逃げ出すしかなかったのだ。

この時、ラインホルトは、フランツと自分を隔てる、ほんの僅かな果てしなく遠い溝を完全に理解し、決意を固めているように見える。
フランツの心を折るには、その肉体を破壊するような痛打ではだめだ。
自身より劣る点を見つけ出しあげつらうこともできない。
もっと致命的な一撃を、彼の心に与えなくてはならない。
自分の裏切り程度ではまるで足りなかった。
だから殺すのだ。殺らなくてはならないのだ。
彼の最も大切なものを、奪わなくてはならないのだ。

そうして、ラインホルトはフランツを得ることができる。
そうして、ラインホルトの嫉妬の炎は蝶となって羽ばたくことができる。
そうして、ラインホルトの愛は成就されるのだ……。

このシークエンスでは、ラインホルトがフランツに抱えるコンプレックスの巨大さが窺い知れる。
ラインホルト側の物語として見ると、全編に渡り途方もなく惨めな気持ちを味わうことができるわけだが、このシークエンスは一入だ。




つまるところ、本作は、ラインホルトという男の愛がもたらした、悋気と執着の物語であった。
最初は、いつも俯き、帽子を被って、オドオドと自信なさげにしていた男が、とても素敵で従順なペットによって一皮剥け、帽子を脱ぎ、髪型をツンツンと尖らせ、洒落た服装に身を包み、徐々に背筋も伸びていく。
実際のところ、彼の中身は何にも変わっちゃいない。それらは、みんなフランツのおかげで手に入れたにすぎない。

だから彼は、フランツを愛した。自分の手に余る者で、自分の劣等感を事更に刺激する相手でありながら、愛した。
しかし、青い鳥は手を離れ去っていく。
だから打ちのめした。愛を示すために。


惨めで醜く、虚栄と欺瞞に溺れ、賢しげで哀れな男・ラインホルト。
無一文からのし上がり、足るを知らず、人生に寝食以上の"愛"を求めた男・フランシス。
合せ鏡のような二人の男が出会い、絶頂と転落を共に歩む栄枯盛衰の様、その美しさと儚さが、とても素晴らしい作品だった。
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