ヤマダタケシ

破壊の日のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

破壊の日(2020年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

2020年7月29日 ユーロスペースで

【現実の中でこの映画がかかっている事込みの映画】
 正直映画単体で観た時、この映画にはノレなさを感じた。いや、ノレなさというより足らなさ?オープニングのシーンから何かが起きそうな予感、そのワクワクがある反面、それしか無いような印象がある。
・7年前(?311なら今が2020なことを考えると9年前か10年前だし)に地下か
 ら見つかった怪物
・疫病が広がっている現代
・疫病にかかった末に死んだ妹、疫病が蔓延する日本を救うために即身仏に成ろうとした
賢一。即身仏になる前に発見された彼は、その後疫病を払うために東京へ向かう。
・賢一を止めるため、自らも狼の狂気を纏い東京へ向かう幼馴染と鉄平
・唯一怪物を見た東京の男

 何となく東京で起こった異変がその外側である村にも影響しだし、そこで暮らす東京とは逆の力(修験の力)を持つものたちがその元凶である場所に踏み込んでいくまでの話という感じがある。
 しかし、この映画は物語として終わらない。
 上に挙げた村パートは、東京と地続きの現代でありながら虚構度が高い。それに反し、作品内には新国立競技場やダイヤモンドプリンセス号、山本太郎が街頭演説をするスクランブル交差点など今2020年3~7月の東京のリアルな風景が大量に盛り込まれている。
 この映画は物語として転がって行かない。かなり強い存在感のある登場人物たちが、それぞれの目的を持ち東京という元凶に集まる動機、集まる=何かがはじまる所までは描かれるが、映画の中で描かれるのは彼らが集まるところまで、そして東京と言う街が疫病に犯されているという描写のみである。
 恐らく、この映画のその先は現実の東京と言う街で起こるのだ。それは当初、オリンピックの開会式であるこの映画の公開日に重ねられていた。つまり、疫病に犯された街でスポーツの祭典が開かれる、祭りの下で排除されている人々がいる中で祭りが開かれる瞬間に何かが起こることでこの映画は完成になるはずだと思う。

 でも、現実の東京では文字通り疫病のせいでオリンピックは開催されなかった。だが、それでこの街にこの映画が示したような〝不寛容な疫病〟が無くなったという訳では無い。いや、むしろそれは存在している。その片鱗は恐らく6、7月のどこかで撮られたであろうスクランブル交差点に映っている。そして、その疫病を払うための何かはまだ具体的に現実では起こっていないような気がする。いやそれはどこかでもう起こっているのかもしれないが、それを見つけることが今のところはできない。
 という段になって今作は成立すると言うか、何か不吉なものに対して何かの儀式がはじまる?もう始まっている(めっちゃ『AKIRA』ぽい)という事によってこの映画は成立するし、この映画が描いていたのはまさにその〝もう起こっているかもしれない何か〟自体だったように思う。

 この現実ありきで作品が成立する感じはどっちが言うと演劇っぽいような感じがしていて、主張などは大きく違うが、そのセリフと音楽のテンションや現実と混じっていく終わり方は唐組のテント演劇みたいだった。
 また或いは寺山修司が『田園に死す』『書を捨てよ町へ出よう』でやろうとした事に近いように感じた。
 
 ただ何かがはじまる気配だけが続く&ちょっとカッコ良すぎるセリフのせいでそこまで好きな作品では無かった。