ちんねん

二重のまち/交代地のうたを編むのちんねんのレビュー・感想・評価

4.0
4人の身体を介して、下層と上層の二重(もちろん重層的ではある)のまちとそこに暮らす人・暮らしていた人、と触れ合う映像。

それぞれの4人にとっての、それぞれの語り手(というか広く相手)がいて、それはそれぞれの組み合わせでしかありなかったコミュニケーションで、それが理屈だけじゃなくて見ていて実際に「おおこれはいいペアになってるな、演出としてうまい!」と思わせる絶妙さが確かにあった。
瀬尾さんがインタビューでも話しているが、被災地の外から来た若者、それもオーディションで選ばれたあの4人、その身体でよかった、ってなんとなく感じさせられる。
女子高生はもちろんのこと、他3人も絶妙。個人的にもう一人の女性およびそのペアの人が絶妙。

ペアでコミュニケーションしてるときの、カメラの距離感が思い出すとちょうどよかった。双方を仲介ような位置に立って(座って)、実際そうなのだろうが、カメラを回してる感じ。 カメラを回すこともプロジェクトの、場の生成の、一環である。
それもまた4人および語り手たちの空間に観客をいざなうようで、まるでカメラの後ろ側のそのまた後ろに観客を手招きして、「ほら君もここにいて聴いてなさい」というような位置。


4人が語り手たちのと時間を咀嚼して、糸はぐるぐるに絡まったままでなんとか話し出す、黒い背景のショット。
観客としては頭の中で語り手のことを想像したり、聞き手の感触を想像したり、聞き手の咀嚼の仕方になにか思うところがあったり、と観ていて豊かな時間であった。
女子高生でないほうの女性が画面を見つめ返してくることに居心地の悪さを覚えたが、それもまたなんか豊かな。


二重のまち、という物語が語り手と聞き手の時間、コミュニケーションに及ぼした作用というのが、ちょっとわかりづらいところはあった。
息子さんをなくされた話なんかは直接的だけど、より抽象的になっていくと、それをオフの時間に読んだり、メンバーで話し合ったりしてる時間のほうが作用の浸透は大きい気はして、まあそれは少しだけ写ってた。


実際のワークショップの流れと、それを時系列ではなく機能的に再配置する(ないしテキスト化・語りの録音も追加し)編集する、おもしろい。
ワークショップの中に、映像制作の視点が並行する。
カメラの前で演じる媒介者としての4人、媒介者として4人を撮るカメラ。
ラストの部屋と、暗い背景の語りは、ものすごいフィクショナルで、演出うますぎ、という畏怖。


4人が各々街を歩くショットが素敵。
4人の身体を介して、街を歩く、街を知ろうとする。
特に最初のバスのショットは素敵すぎる。

ラスト、大阪へと帰る、あのカメラワークおもしろいよね、
でもなぜか東京の雑踏帰ってほしかった、という欲望がパッと浮かんだのは、僕が大阪出身であることとはあまり関係なく、彼女が一人で歩いてる感への違和感だったのだが、それはやや突き放されたような感覚? 監督の意図があったのか?


https://www.nobodymag.com/journal/archives/2021/0302_1139.php
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