毱

わたしのお母さんの毱のレビュー・感想・評価

わたしのお母さん(2022年製作の映画)
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団地の階段(隣に住む親子(母娘)とすれ違う。母親が先に入り、ワンテンポ、ツーテンポ遅れて娘が。後を追うほかない娘)
このシーンを見た時、隣の母娘はかつての「わたし(ゆうこ)」と「おかあさん」なのか、とふと思った。けれど、たしかに、その一面はあれど、彼女たちは「わたしたち」の関係性と(時折重なるかもしれないが)同じとは言えないのかもしれない。なぜなら、その幼き娘は、この映画の終盤で、帽子を被せてもらい、幼稚園(保育園?)に手を繋いでむかうのだから。そのシーンで(母親が来る前に)幼き娘は、「おばちゃんは?」とゆうこに聞く。また遊ぼうって言っておいて、と言い残し、去っていく親子と、かばんを握り歩いていくゆうこ(その日は、母が倒れたという報せを受け、電車に乗る前のことだというのは、のちにわかるようになる)。
そうやって事後的に判明することで「更新」されていく彼女の物語。一見だけでは意味づけされることなく見落としている仕草もたくさんあることだろう。見落とす、ということは、欠点のように思えるかもしれないが、それは新たな発見や更新へのつぼみとなる。だから、最後のお母さん嫌いだった、というセリフは、現時点での到達点であり、それはその後更新されていくのかもしれない。言葉や仕草が、一つの意味に集約されず、でもそれでいてひとつの「物語」やささいな関係を描き切るこの映画がわたしはとてもすきだ。

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お母さん嫌いだった、と誰かに聞いてもらうわけではないにもかかわらず漏らされた心のうち。「わたし」の感情を取り戻した、ということなのか?
オブジェクティブ、三人称的にひいた目でみているのは、子供のころも、大人になったいまも変わらない。女三人の旅行でも、ゆうこは後ろを歩いているし、同じ写真にも写りたがらない。その客観性の解放?
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ダンボール、廊下からリビングへの侵食。
キッチン、寝室、下駄箱、聖域ないしわたしの領域の侵食。
お母さんがやって「あげた」、スーパーへやってくる、という侵食。
妹の甘え方(一方で、妹も純粋に甘えてるのかはわからない、というのは映画に関係なく考えたこと)。
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外から見た時の母親の「よさ」。
だからこそ、理解されないもの。
(親孝行ねぇ、という外野(旅行先での甘味処ーーでもここでは、結婚や子供の話になって、妹が席を立つのが印象的だった)
最後、きらいというけれど、「好き」とも「嫌い」とも言えなかった彼女がはじめて明確にした感情?
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