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神に仕える者たちのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

神に仕える者たち(2020年製作の映画)
4.0
[神の下僕、国家の下僕] 80点

昨年のベルリン映画祭エンカウンターズ部門選出作品。一部でパヴェウ・パヴリコフスキ『Cold War』と二部作とか呼ばれており、確かに本作品の3回に1回くらいキマるショットやシンプルで静謐な物語という点でパヴリコフスキ的な要素を感じないこともない。また、閉鎖的環境に国家権力が介入することで停滞した時間を破壊していく様は、DAUシリーズにも似ている。三つともモノクロだし。物語の舞台は1980年のブラチスラヴァにある神学校である。二人の青年ミハルとユライは共産主義的な荒廃から逃れるため、ローマカトリック系神学校へと入学するが、彼らの理想はすぐに打ち破られる。"パーチェム・イン・テリス"という組織が共産主義政権に協力し、教会内の反政権分子一掃に手を貸していたのだ。二人がそれに気付いてから、一瞬にして彼らの手から物語がこぼれ落ち、one of themとして回収されてしまう展開に、共産主義の人間をなんとも思ってない感じが現れている。

本作品は意図的にセリフが少なく作られている。その静けさは、互いが互いを監視している閉塞感と緊張感の現れでもありながら、簡単に政権に協力してしまった老人神父たちへの反発として若い神学生たちが結束していくという断絶と反逆の緊張感も含まれる。加えて、冒頭で提示される"143日前"という数字以外具体的な時間が明かされず、明らかに143日も経ってなさそうなタイミングで冒頭に戻ってくるという構成からも分かる通り、経過時間の提示も曖昧になっている。それはある種当時のスロヴァキア社会の停滞感や、終わりのない強権政治による疲弊感のようなものも反映しつつ、"一人の人間より教会の存続"という言い訳をしながら、自分の保身に走って教義を捻じ曲げる老人たちのいう"教会の時間軸"とも呼応している。"教会は何百年何千年という単位で語られる"と。ちなみに、"パーチェム・イン・テリス"とは、ヨハネ23世が冷戦を憂慮して1963年に発した、カトリック信者を含めたすべての人々へ当てられた回勅を指している。同名の組織が、カトリック信者すら売り飛ばす保身組織と成り果てるなんて、現実世界は皮肉がキツすぎる。

映画のもう一人の主人公とも呼べるのが、政府の"教会課"に属する役人の男である。彼が物語に登場するのは、教会の掲示板に貼られた"福音書を読めば政府に協力なんかできないはずだ"という紙の犯人調査だが、映画としては冒頭で登場する。真夜中の橋の下にあるトンネルで、トランクから男の死体を引っ張り出す印象的なオープニングは、その後の不穏な展開を予感させながら、劇中で唯一"足"及び"泥のついた靴"を強調することで、深みにハマって抜け出せなくなった男の別の側面も透かし見ている。男には体中に火傷のような跡があり、ユライ(かミハル)との重ね合わせからも分かる通り、二人は精神的には同一人物であり、ある種時間が循環していく様すら描かれている。つまり、本作品で時間は停滞したまま循環だけを繰り返しており、それが正しく教会であり今の社会なのだなと。
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