KnightsofOdessa

リトル・ガールのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

リトル・ガール(2020年製作の映画)
3.0
[彼女の名はサシャ] 60点

フランスで暮らす少女サシャは、体が男性であるがために自分を受け入れてくれない人々や環境に苦しめられている。それは家族も同様で、特に母親は"自分が女の子を望んだから"であるとか"中性的な名前にしたから"などと思い悩み、サシャを女性として認めない人々はそこに付け込もうとする。学校の校長らしき人物が母親に対して"生まれた時の性別はどっち?"と詰問する場面なんか吐き気がしてくる。両親はサシャに自分の思い通りの生き方をして欲しいが、それをするには彼女を守らねばならないし、幼い彼女と同じくらい多くの、或いはそれ以上のことを学ばねばならない。ジェンダー・アイデンティティに疑問を持つ幼少期の人物を描いた作品はこれまであまり多く作られなかったことを考えると、本作品の意義は計り知れないものがあるが、そもそも映画という制約があるからなのか、映画のほとんどは近親者(主に母親)へのインタビューやサシャを含めた大人たちとのセッションで埋め尽くされている。サシャが普通の少女であることを強調し、腫れ物を扱うように"主役"として中心に置きたくなかったのだろうか。それが悪いというわけじゃないんだが、サシャ本人だけにカメラが向いている時間がそこまで多くないのは少々気になるところ。親に対してだって言えないこともあるだろうし、時としてそれが一番深刻な問題であることも多いから。

それでも印象的なシーンは数多くある。母と二人で専門家に会いに行くシーンでは、会話を交わすうちに安堵からサシャが涙を流す。母親が娘を"彼女(she)"と呼んでいいのか、ドレスを着せていいのかと悩んでおり、医師が二人に問題ないと諭した直後に。サシャが誰がどんなことをした/言ったなどの具体的な説明をしたがらなかったため、彼女とその母親がどれほど心無い言葉を浴びせられてきたかが分かる象徴的なシーンだ。また、他人からの攻撃などの直接的なシーンが全くないだけに、バレエ教室で他の生徒との間に微妙な距離が空いているシーンは子供の残酷さについて強烈な印象を残す。彼女を女性として理解した同級生たちを初めて家に招くシーンも、実にありがちな遊びに興じていて目頭が熱くなる。

全体的に、見世物にしないように配慮しすぎて、サシャの"今"の映画というより母親の心配する"未来"を向きすぎた映画になっている感じは否めない。そして被写体に近付けすぎたカメラも、全体を見渡すには窮屈すぎる映画を象徴しているかのようだ。ただ、これは我々が何も知らずに本作品を前にしたとき、何を期待するかに依るのかもしれないし、だからこそ、サシャの"今"に光が当たる場面が一際輝きを放ち、絶対に取り戻せない"今"を"普通に"生きようとする何気ない行為が尊いと感じるのかもしれない。羽を背負ったサシャの軽やかな舞いは反則的に美しい。

追記
この作品について無批判に受け入れるのだけは間違っているとはずっも思っていて、最近になって色々考えた結果、上映の是非は大人になったサシャに決めて貰いたいと思うようになった。両親としては彼女のことを知ってもらうという短期的な目線で許可したんだろうけど、中長期的目線は確かに欠如しているし、両親だけの問題じゃないからね。
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