Uppercase Print(英題)の作品情報・感想・評価

Uppercase Print(英題)2020年製作の映画)

Tipografic majuscul/Uppercase Print

製作国:

上映時間:128分

5.0

「Uppercase Print(英題)」に投稿された感想・評価

[ある抗議文から紐解くチャウシェスク時代の欺瞞] 100点

1981年9月13日朝。ボトシャニの党本部の壁にチョークで書かれた文章が発見される。友好国ポーランドには"連帯"があって、我々と同じ食糧難でも労働者の権利は保証されている!我々は食糧が欲しい!権利が欲しい!自由が欲しい!そう叫ぶマニフェストに見た者は凍りつく。報告もせずに消し去ろうとする者まで現れる。セクリターテと呼ばれる秘密警察の面々は筆跡や内容から幅広めなプロファイルを導き出すも捜査は難航し、一ヶ月後にある少年が現行犯で逮捕される。彼の名前はムグル・カリネスク(Mugur Călinescu)、まだ16歳の高校生だった。

本作品について、ジュデは"映画を演劇の録画とバカにするのは映画に対する最上級の蔑みであり、録画した演劇は直ちに映画になるのだ"とブチギレている。事実、本作品は特殊な実験的手法を用いている。セクリターテの調査文書を基に書かれた Gianina Cărbunariu による同名の舞台劇を映画化しているのだが、基本的に俳優が調書にあるような無機質な言葉をカメラに向かって読み上げるだけに留まっているのだ。そこに感情は感じられず、抑圧されたかのような演技や質素な舞台の背景は当時の独裁政権下の生活を再構築しているとも思えてくる。

演劇的な手法は前作『I Do Not Care If We Go Down in History as Barbarians』から繰り返されている。同作はルーマニアにおけるユダヤ人虐殺についての演劇を企画し、その長い準備過程の中に歴史修正主義者との戦いを混ぜ込んでいたのだが、本作品ではその手法をより過激化させているのだ。また、同作の主人公イオアナ・ヤコブも本作品にカリネスクの継母役で出演している。前作では表情豊かだった彼女も、本作品では他の俳優たちとと同じく暗い表情のままだ。しかも、カリネスク一家の会話は当局に盗聴され記録されていたので、想像/創造の余地もなく彼らの会話が完全に再構築される恐怖。

そして、その合間に当時のテレビなどで流された"政権寄りの"映像が差し込まれる。民族衣装で歌い踊る歌手、呑気なテレビドラマ、チャウシェスクが参加するお祭り行事、冷蔵庫の宣伝に子供の政府讃歌まで、これだけ観ればルーマニアは大変輝かしい未来へ歩んでいるような錯覚に陥るだろう。しかし、これらの映像は監督の言葉を借りれば"公表された物語"、つまりは取り繕った紛い物としての外面であり、内部の物語は全く異なってくるということと対比させているのだ。生き生きとした人々の記録映像と抑圧された演技で描く市民生活の対比、国家全体と個人の物語の対比、建前と本音の対比、表裏一体であるこれら対比によってチャウシェスク時代の欺瞞を紐解いていく。

交互に入れ替わるこれらの映像たちは、それらが本質的に持つ全体的な意味の対比以外に個々の対比も行う。食糧難を訴えるカリネスクのマニフェストの次に野菜ムサカの作り方を挿入し、子供たちの明るい未来を謳う宣伝の後に尋問されるカリネスクを挿入し、カリネスクの行動に抗議し怒り来る教師たちの後にチャウシェスクから勲章を貰う経済人を挿入する。まるでマルセル・オフュルスのドキュメンタリー作品のように矛盾を明白に指摘していく。まるで会話でもするかのような親密さで、故国の歴史という織物の縦糸と横糸を組みほぐし、外面と内面の矛盾を白日の下に晒けだしたのだ。

セクリターテはカリネスク本人を含め、彼の父と継母、親友たちに尋問を重ね、条文を書くに至った経緯や両親による再教育の過程を追い、そこに盗聴によって得られた家族の会話や教師たちによる集団リンチを足すことで、大国に対してたった一人で喧嘩を売りに行った少年の理想が醜い大人たちによって暴力的に歪められていく様を克明に描写していく。

★以下、多少のネタバレを含む

映画は大きな権力を以て個人を握りつぶす"理想"によって支配される。チャウシェスクの演説、子供たちのダンス、パレード。そして、カリネスクは亡くなり、開き直った元セクリターテたちは一握りの事実を使って自身を正当化しようとする。その後ろで流れるのはチャウシェスク時代の…ではなく現代のブカレストの映像で、彼らの思想が再びルーマニアに息を吹き返し始めていることを暗示する。ほら、"監視"じゃなくて"情報共有"って書いてあるじゃん。ほら、9割の職員は自分の仕事してただけだよ、と。歴史修正主義との戦いは前作から続いていたのだ。

興味深いのはその後の展開である。ジュデは我々に一つの解を示してくれる。親友に裏切られて売られたカリネスクはそれを教訓としながら、"告解"したから奴らも手を出せないさ、と応えるのだ。そして、初めて登場する無言の抗議文が時を越えて提示される…資料として提示される過去の写真は"外面"であり、その内容は"内面"を表している。映画は最後になって対比関係にあった両者を繋げ、それら全てがルーマニアであったことを、そしてそうあり続けることを提示する。

※追記
ユダヤ人虐殺についての話ながら、決定的なシーンを最後の最後まで描かなかった前作と、マニフェストについて内容には触れながら最後の最後まで現物を出さなかった本作品は、その手法からも似通っているだろう。