ナガエ

僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46のナガエのレビュー・感想・評価

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【欅坂46】表現者集団・欅坂46、そして平手友梨奈の存在感
https://note.com/bunko_x/n/n7d445c796b70

ーーーーーーーーーーーーー以下、二度目の感想ーーーーーーーーーーー

【欅坂46】【映画】「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」(二度目)
https://note.com/bunko_x/n/n4577cafb5cc9

ーーーーーーーー以下、一度目の感想ーーーーーーーーーーーーーーーー
鮎喰響がいる、と思った。
平手友梨奈のことだ。

【―『響』の撮影が全部終わった時は、平手友梨奈の中にはどんな感情があった?
「ずっと響でいたい」。名前も、改名したかったです。鮎喰響になりたかった。
―マジか!
秋元さんに言いましたもん、「改名したい」って。そしたら「いいよ」って言ってました(笑)。(中略)たぶん、その気持ちは消えないと思う】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

「鮎喰響」という架空のキャラクターに自身を重ね合わせ、名前まで変えたいと言っていた彼女は、まさに現実の世界で「鮎喰響」を体現していると思った。

(守屋茜)『近くにいて変化を感じたのは、「(二人)セゾン」辺りかな。その頃はまだ波があったかな。その日によって違うって感じ。でもまだコミュニケーションは取れてた。もう分からなくなっちゃったのは「不協和音」辺りから』

「アイドル」という形で”表現”の世界に飛び込んだ平手は、その”表現”に良い意味でも悪い意味でも取り込まれていく。

(守屋茜)『あの曲ってすごく孤独なので、ちゃんと入り込むには、ずっと楽しいとかの感情が入っちゃうと演じるのが難しくなっちゃうのかなと思う』

「不協和音」のMV撮影の場面。メンバーの一人が転んでしまいカットが掛かる。他のメンバーは倒れた子に駆け寄るが、平手だけは自分の立ち位置から動かない。

(菅井友香)『「不協和音」の時、私は隣のポジションだったんですけど、一度も目を合わせてもらえませんでした。シンメ(トリー)が(長濱)ねるだったんですけど、ねるも同じことを言っていて、その時は一言も話せなかったって。
その時によって人格が変わる感じでした。きっとすごく感性が豊かだと思うから、人が感じないような空気とかを敏感に察してたのかな。だから、気を許した相手とか、一人の方が楽なのかなと』

鮎喰響も、表現者としての己を追求する。作品が賞を取ろうが、話題になろうが関係ない。大事なことは、表現したいことが、表現されるべきことが表現されているかどうか。鮎喰響は、そこにしか関心がない。高校の同級生に、「(編集者が)つまらない小説を書けと言ったの?修正案に納得して書き換えたなら、それは書いた人間の責任。誰かのせいにしちゃダメ」と言うが、自分の内側から何を出し切るべきなのかということへの覚悟が、鮎喰響には自然と備わっている。

10代にして。

若いからとか、アイドルだからとか、女性だから、なんていう定型文で何かを語りたいわけではないが、しかしやはり、経験の差というのは人生において顕著に影響するはずだ。そういう意味で若さというのは不利な要素である。さらに、鮎喰響は、「小説家になるために特別努力をしたことがない」と言い、平手友梨奈も、

【―その頃は、将来何になろうと思ってたの?
ない。今もないけど。ない。ほんとうにない。】「ロッキンジャパン 2019年6月号」

【―何か熱中してたことはあるの?
ない…………ないです
―自分から、「これやりたい!」って思ってたことって何かあるの?
ないですね】「ロッキンジャパン 2019年6月号」

という子供だった。経験の差どころのはなしではなく、経験するための一歩を踏み出しもしていなかった。

それでも彼女たちは、ほんの一飛びで(という風に外部からは見える)、”表現”のトップランナーになってしまう。

【秋本 今の時点で彼女は完成形だと思います。足りないところはないんじゃないかな。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」(振付ユニット・CRE8BOYインタビュー 2017年12月6日放送に『FNS歌謡祭』で平井堅の『ノンフィクション』に合わせて平手友梨奈が行ったパフォーマンスの振り付けを担当。山川雄紀と秋元類のユニット)

【欅坂46の作品を撮る場合は、まず何よりも撮影に関わるカメラマンも照明部も、全スタッフが平手(友梨奈)さんやメンバーのことが好きなんですよ。だから、カメラマンが撮りたくて撮ったカットが多いし。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」(新宮良平インタビュー 『二人セゾン』から連続でシングル表題作のMVを手がける)

【完成した振り付けは、当時の彼女たちには難易度の高いものでした。『サイレントマジョリティー』で平手さんが真ん中を歩く動きがありますが、当初はこれが出来なかった時のために別の簡易な振り付けも準備していました。けど、平手さんは私が考える以上の存在感で表現をしてくださいました】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」(振付師・TAKAHIROのインタビュー)

欅坂46というのは、そんな「天才・平手友梨奈」の受容と解放の歴史であると言えるだろう。

このドキュメンタリー映画で描かれていたのは、「平手友梨奈という空白」だ。

平手は、「ロッキンオンジャパン」の最新号で、このドキュメンタリー映画について言及している。【自分の中で『もしインタビューが載るんだったら、自分の言葉で言いたいなあ』っていう気持ちがずーっとあって】と断った上で、【単刀直入に言うと、この作品の中で私はひと言も話していません】と言っている。これはどういう意味かといえば、インタビューには応じなかった、ということだ。実際、監督を務めた高橋英樹氏は映画のパンフレットの中で、

【何度か新規のインタビューのお願いをしたのですが快諾は得られませんでした】

と語っている。もちろん、インタビューという形ではなく、舞台裏を映し続けたカメラの前で平手が話している場面はある。しかし、それもごく僅かだ。結成当時の、中学生らしいキャッキャした感じの平手が見られるのは貴重だが(ちなみに余談だが書いておく必要があると思うので書くと、僕は欅坂46に関してはほぼ何も知らない。ライブにも握手会にも行ったことがなく、「欅って、書けない?」も見たことがない。顔と名前が一致するメンバーも多くないので、以下、映画での発言者が分からない場合は(不明)と記載している)、それも「不協和音」のMV撮影の話が始まるまでだ。それ以降は、舞台裏を映すカメラの前でさえ、平手が喋る場面はほとんど存在しない。

平手のインタビューが撮れなかったことに関して、パンフレットの中で監督は、

【正直焦った時期もありましたが、ご本人の意思は尊重したいと思いましたし、だんだん「中心にいる人物が、本当は何を考えているのかは判らない」という構成も十分に映画的なのではないか、と思うようになりました】

と言っている。ちなみに監督は、「嘘と真実」というタイトルについても、こんな風に言っている。

【何かを隠蔽する、暴露する、という意味での「嘘と真実」ではないと思っています。ボク個人は、フィクションとドキュメンタリーの関係性について示唆しているタイトルだと思います。ドキュメンタリーで撮られている部分が、すべて真実とは限らない。人はカメラを向けられれば意識するし、本能的に「自分」を演じてしまう可能性もある。逆に、ステージで繰り広げられているパフォーマンスは、何かの「役」を背負っているけれども、だからこそより自分らしい感情が発露しているかもしれない。この映画の何が「真実」なのかは、観る人の心の中で決めるしかないと思っています】

平手友梨奈も、この「嘘と真実」というタイトルにも絡めつつ、こう語る。

【自分は欅坂の一員だったから、自分が歌ったりしてる姿とか、言動、行動は映っていて、それに対していろんな意見も出るとは思います。でも、こんな自分のことを必死にサポートして、支えてきてくれたマネージャーさん、秋元さん、メイクさんだったり、私が信頼しているスタッフさんはたくさんいて、その人たちのことは叩かないで欲しいと思います。それが自分はいちばん傷つくから。うん、なので、本編に描かれていること、言葉がすべて真実だと思わないでほしい…です。もちろん、これまでの5年間の全部が伝わるように作ることは難しいと思うんですけど、あれがすべてだと思われると、もっともっといろいろあったし………。最近、マネージャーさんと話していたのは、『いつかすべて語れる日が来たらいいね』って
―本当にそう思う。いつかどこかで話せるようになったらいいね。平手はきっと自分を肯定できるようになる気がする。今はしゃべれないと思うしね。
いつになるかわからないけど、『絶対話したくはない』ってわけではないから。どんな作品でも、ドキュメンタリーっていうと、全部美化されてしまう気もしていて。あと、タイトルに『嘘と真実』とあるけど、秋元さんがこの映画のタイトルをつけたわけではなくて、疑問に思っているとは言ってました。私もこれまで届けてきたものが嘘で、ここに映っていることが真実というように思われてしまうと悲しいなって思います。こう言うと、『だったら、平手しゃべれよ』って言う人もいると思います。でもそれは本当にタイミングのこともあったし、自分の精神のこともあったから、本当に申し訳ないいし、うん、謝罪の気持ちもたくさんあるけど、ここに描かれていることだけが全ての真実だとは思わないで欲しいなって思ってます】「ロッキンオンジャパン 2020年10月号特別付録」

ドキュメンタリー映画が、「真実を”暴く”もの」でしかないとしたら、この作品はドキュメンタリー映画ではないだろう。「平手友梨奈という空白」に対して、事実をベースにした真実、あるいは真実らしきものを提示することは出来ていないからだ。何故そこに空白が生まれたのか、それはどういう過程で出来上がっていったのか、というようなことは、この映画では描かれない。

しかしこの映画では、その空白と、様々な人間との関係性みたいなものを丁寧に描き出していく。そして、空白の周辺を丁寧に描き出すことで、空白そのものを浮かび上がらせるような描き方は、非常にドキュメンタリー的だ、と感じた。

「平手友梨奈という空白」が最も如実に描かれるのは、この映画の中でも中心的な話題として扱われる、2017年の全国ツアー「 真っ白なものは汚したくなる」の名古屋公演の平手友梨奈の欠席だ。この欠席は、当日決まり、メンバーに伝えられた。初日は、平手抜きの演出プランに急遽変更することは不可能と判断し、平手のパートをそのまま歯抜けで行った。映画の中で、「不協和音」の「僕は嫌だ」を誰も歌わないままサビパートに入るライブ映像が挿入されたが、これは直接的に「平手不在」を実感させるものだった。

欠席の理由についてはスタッフから、こんな風に説明があった。直前に行われた「ロック・イン・ジャパン」でのパフォーマンスに納得がいってなくて、今自信を持ってパフォーマンスできる状態ではないから、と。

この時のことについてインタビューでも触れていたことがあった。

【―ロック・イン・ジャパンの時も最後まで“不協和音”をやるかやらないか悩んでくれてたもんね。
自分のなかで勝負に行かなきゃいけない場っていうことはわかってたし、だからできるだけ今までのツアーのなかでやってこなかったんです。スタッフさんも理解してくださったので。で、ここでやってしまったら、できたらすごくいい気分になるけど、できなかったら心が折れるから、そうなった時にどうなるかが自分でもわからないから、ほんとにギリギリまでスタッフさんと相談しました】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

平手のこの、「完璧なものでなければ出す価値がない」という苛烈さもまた、鮎喰響と共鳴する部分がある。

二人に共通するのは、「嘘がない」という点だ。

平手友梨奈が、まだ映画の中で明るく振る舞っている初期の頃、こんなことを言う場面がある。

(平手友梨奈)『でも、今日は泣けなかったから、パフォーマンスには納得してないんだと思う。(「目標が高いんだね」と言われ)いや、納得してれば自然と涙は出ると思うんですよね。いやー、いつか来るんですかね、そんな日が』

結局、そういう日は来ないのだということを彼女は理解した。

【んー、自分はまだダメな表現をしてるから。、いいパフォーマンスをしたいと思ってるし、期待に応えられるようなパフォーマンスをしたいと、それは常に思ってるんですけど、やっぱり自分では納得いったことがないですね
―でも、本当に納得いっちゃったら、もうできないんじゃないのかなあ
ああー、そうですね。クリエイターは納得したらダメなんだよな。だからこそ、『次、もっと頑張ろう』とか『次もっとこうしよう』って思えるのかな。確かに、『100点なんて目指せないんだよ』って言われることはあります。でも、出したいとはやっぱり思うけど
―「自分ではすごくうまくできたと思ったし、これだけ頑張ったんだから結果はどうあれいいじゃないか」とか、みんなそうやって、自分がやったことを肯定するものなんだよ
ああー、やったことないな、そんなこと(笑)。そういう処理の仕方はわからない】「ロッキンオンジャパン 2020年10月号特別付録」

「そういう処理の仕方はわからない」という彼女の発言は、印象的だ。平手友梨奈という存在を読み解く糸口になるだろう。

僕は、表現者として世界に対峙したことがほとんどないから分からないが、普通は、「ダメな部分はあったけど、これが今の全力だ」という形で自分を納得させていくのだと思う。そうじゃないと、表現者として生きていくことは辛すぎるだろう。自分が生み出したものについて、納得してしまったら歩みが止まる、というのとは別の側面として、自分が今出せる100%は出し切った、という評価軸がなければ、舞台に上がるのは怖すぎる。

しかし、平手は、「そういう処理の仕方はわからない」のだ。

平手友梨奈の中には常に、“正解”というのか、“たどり着くべき場所”みたいなものがあって、そことの距離感でしか自分の“表現”を判断できない。そしていつも、何をやっても、周囲から称賛されても、彼女自身は、その場所にたどり着けていないからダメだ、と判断してしまうのだ。

鮎喰響も、彼女自身が考える「良い小説」という判断基準によってしか、作品を評価しない。その人がどんな賞を獲っているだとか、過去にどんな作品を書いただとか、どんな立ち居振る舞いをする人なのかということとは一切関係なく、「作品」と「良い小説」との絶対的な距離というシンプルな評価基準だけで判断していく。

鮎喰響はある場面で、「作者の分際で、読者が良いと思った作品に難癖をつけるなんて傲慢だ」というようなことを言う。平手も、そう感じることができていたら、少しは違っていたかもしれないと思う。でもそれは、小説がたった一人で完成させるものであるのに対して、彼女がいる世界は誰かの何かを代弁するようなものだという違いが大きいのだろう。最近のインタビューでも、

【―自分の中で、かつてと不安の質は変わってきた?
いやー、全く変わってないですね。今でも不安だし、たぶんアップしても不安だし、試写を観ても、それが世の中に公開されても不安だし、きっとそれはずーっと変わらないと思います。自分に自信がないのはずーっと変わらなくて。監督だったり、キャストの方だったり、スタッフさんだったり、それを待ってる人たちの期待に応えられるのかなとか…そういう感じですね】「ロッキンオンジャパン 2020年10月号特別付録」

と発言している。

そういう、平手友梨奈の“表現”に対する真摯さみたいなものは、もちろん、欅坂46というグループに対して良い影響を与えてきた。菅井友香はかつて、

【てちの存在って、すごく大きいと思います。私たちがパフォーマンスについて深く考えるようになったのも、てちが先陣を切って歌詞と向き合って、その先を行く表現をしていたから。一緒にいるのといないのでは、なにかが大きく違う気がする。】「BRODY 2019年4月号」

と言っていた。また映画の中で印象的だった、守屋茜のこんな言葉もある。

(守屋茜)『欅坂の楽曲は、平手だから成立してると思ってて、正直、バックダンサーだなって感じることもあったから。でもそれって、平手の後ろだから踊れるっていうところはあったと思うんです』

アイドルグループにいながら、自分のことを「バックダンサー」と自認するというのも凄い話だと思うが、それで成立している、だから欅坂46として成り立っているという共通認識が、欅坂46というグループの最大の強さだろうという風にも思う。このドキュメンタリー映画には、実際のライブパフォーマンスの映像がかなりふんだんに使われている。僕自身、「平手友梨奈」という存在に強く惹かれているからそう感じるだけかもしれないけど、やはり、申し訳ないと思いつつ、平手友梨奈がいる時のパフォーマンスの方が圧巻だと感じてしまう。それは、平手友梨奈という個人の凄さも当然あるが(映画の後半、平手がライブ会場で「角を曲がる」を一人でパフォーマンスしている映像があって、平手はやはり、たった一人でも欅坂46として成立する、と感じてしまった)、平手友梨奈という存在を前提にパフォーマンスをしている、というその”異様な”一体感みたいなものが、欅坂46のパフォーマンスを強烈に引き上げているという風にも感じた。

小池美波は映画の中で、平手友梨奈が欠席したライブで「二人セゾン」を披露した際の感覚を、こんな風に話していた。

(小池美波)『正直もうなんていうか、この会場にいる皆さんが私の敵になってもいいって感じで踊ってました。欅坂のため、平手のため、それだけを考えて踊ろうと』

「欅坂46のため」だけではなく、「平手友梨奈のため」という感覚が同時に入ってくることが、欅坂46というグループの強さなのだろうし、それが、平手友梨奈が欅坂46に必要だったという本当の意味でもあると思う。

【―TAKAHIRO氏は、平手友梨奈が存在する上で、他のメンバーが絶対に必要不可欠だと考えている。
平手さんが欅坂46のなかで魅力的に映るのは、メンバーのみんなが一緒に走っているからだと思います。振り付けを考えるときも、欅坂46のメンバーだから信じてつくる動きが多くあります。(中略)また、平手さんはどこのアイドルグループのセンターよりも、センターポジションにいる時間が少ないのも特徴的です。(中略)欅坂46におけるセンターという考え方は、一番前の真ん中にいるという形式を指すのではなく、作品全体を見たときにこの人が物語の中心にいるのだと感じることを大切にしています】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」(振付師・TAKAHIROのインタビュー)

しかし、平手友梨奈の”表現”への真摯さは同時に、悪い影響を生みもする。

【―映画『響―HIBIKI―』とMV『角を曲がる』を通して、平手さんの変化は感じましたか?
「自分が納得したことしかやらない人」というイメージはずっと変わらないですね。】「BRODY 2019年2月号」(映画監督 月川翔)

【平手さんとも、作品を重ねるごとに会話する量が増えています。それは彼女が歌詞を本当の意味で理解しないと、パフォーマーとして打ち込めないというのがあると思うから。だから、彼女が納得するまで何時間も話すようになりました】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」(新宮良平インタビュー 『二人セゾン』から連続でシングル表題作のMVを手がける)

こういうスタンスで”表現”と向き合い続けている平手にとって、「出来ないと分かっていてパフォーマンスすること」は”嘘”になってしまう。鮎喰響が敏感に、作品の虚飾を剥ぎ取ってしまうように、平手友梨奈自身も、「人が自信がない時は分かる」という。

【(月川翔 映画「響」監督)それは、少しでも妥協したものは絶対に平手さんに観せられないと思ったから。平手さんにはそういうことも全部見透かされそうな気がして。だから、自信がないときは会いたくないんだよね(笑)
確かに、人が自信がないときって何となくわかります
(後藤幸太郎 映画「響」助監督)こえーなあ(苦笑)。大人の世界では納得出来なくても、イエスと言わなきゃいけないときもある。でも、そこでちゃんとノーと言って闘えるかどうかなんだよね、モノづくりって
(月川翔 映画「響」監督)それはこの作品が描いていることでもあり、平手さんの振る舞いが周りの大人に影響を与えたところでもある。本当にこの映画は完全に自分にとっての転機になってしまって、モノづくりをしているといつも頭の片隅にチラつくんですよ。もしこれを平手さんが観たら、何て言うだろうって
私が思うのは、大人の世界にはいろいろあるとは思うんですけど、負けてほしくないんです。監督さんだけじゃなく、その映画に関わったスタッフさん一人ひとりが伸び伸びと映画を作れることが一番いいんだろうなって。まるで学生が映画をつくるときのように…。監督の次回作も、絶対に観ます。後藤さんも小野田さんも関わる作品は教えてくださいね。ちゃんと感想をお伝えしたいから
(月川翔 映画「響」監督)怖いけど(笑)、でももしダメだと思ったときは正直に言ってよね
はい、ちゃんと言います(笑)】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

他人の表現に対しても常に真摯に向き合う平手友梨奈だからこそ、自身の表現には妥協できない。だから、名古屋公演をその当日に欠席する、などという決断に至ってしまう。

そんな平手友梨奈について監督が菅井友香に、「平手、しっかりしてくれよ、って思うことない?」と質問する場面がある。個人的に、この映画の中で1,2を争うほど印象的な場面だった。

そもそもこの映画に登場するメンバーの中で、菅井友香は非常に印象的だ。欅坂46のキャプテンとして、この激動の5年間を引っ張り支え続けた存在は、やはりインタビュー中も”キャプテン”だった。これは、もう少し詳しく説明したい。これは、「欅坂46のキャプテンだから、菅井友香個人として言いたいことがあってもそれをグッと抑え、キャプテンとして言うべきだろう優等生的発言をしている」というような意味では決してない。そうではなくて、僕がこの映画から感じたことは、「菅井友香というのは、菅井友香という個人がキャプテンそのものなのだ」ということだ。菅井友香という個人は、ずっと欅坂46のキャプテンであり、そういう意識でい続けている人だからこそ言える言葉を口にしていたと強く感じた。

(菅井友香)『今まで出会ったことがないような天才的な子だから、自分たちが分からないようなことに気づいたりしちゃってるんだろうなって。てち(平手友梨奈)がいてくれたお陰でグループがここまで大きくなった反面、普通のグループではいられないって部分があるんだなって。心配っていうよりは、他のメンバーのことを考えると、そのバランスが難しいなというのは感じます。やっぱり、イメージしていたグループではないから』

「平手がいてくれたからこそたどり着けた場所がある」一方で、「平手のために普通ではいられない」というアンビバレントさは、欅坂46というグループを安定させず、不協和音が通底し続けるような存在にし続けることになった。

ちなみに、この少し前の場面で、菅井友香は涙する(ちなみに余談だが、パンフレットによれば監督は、【内心決めていたのは、メンバーがインタビュー中に、もし語ることで無くことがあったら、撮影を止めようと。ただ実際にそうなったときにカメラを止めるというのは、雰囲気的にも難しかったですが】という。実際、インタビュー中に涙を見せる場面は、映画中、この一場面のみだったと思う)。9枚目のシングルの発売が延期になった時の心境について語る場面だ。

(菅井友香)『やっぱり作品を大事にしてきたグループだから、みんな納得できる形で出せるのが一番だと思うから、辛抱強くやりたいけど……それまでメンバーがいてくれるのかなって』

延期になった理由。それは、台風で延期された一度目のMV撮影からしばらく時間が経ってから行われた、二度目のMV撮影に、平手友梨奈がやってこなかったことだ。平手は、「歌詞や世界観を表現できない」と後々伝えたという。その後も、ライブに出ないことも多くなる。一方であるライブでは、「避雷針」という曲のみ参加、というようなこともあったという。

欅坂46や平手友梨奈という人物について知らなければ、正直、なんてワガママで傲慢でグループ愛が無い人間だろう、と感じるかもしれない。しかし、そうではない。ここにも、鮎喰響とリンクする部分を感じる。

鮎喰響は、時には暴力も辞さないという覚悟で自らの主張を曲げずに生きようとする。そういう行動は様々な問題を引き起こし、多大な迷惑となって現出するが、しかし、殴られた当の本人たちが、「私が芥川賞・直木賞を選ぶならこの作品です」「読んでないのに批判するなよ。俺はあれを読んで、心が震えたよ」と語る。作品の力で、すべて蹴散らしていくのだ。

もちろんそれは物語であり、フィクションだ。しかし平手友梨奈も、それに近いことをしている。別に平手友梨奈は暴力を振るっているわけではないが、しかし、突然ライブを欠席したり、MV撮影にやってこないというような行動は、グループとして活動しているメンバーからすれば暴力的に感じられる行動だろう。当然、すべてのメンバーが平手の行動を許容しているなんて僕は全然思ってはいないが、それでも、欅坂46を取り巻く全体とすれば、平手のその暴力的な行動は、”許されている”という評価になるだろう。名古屋公演の欠席に関して守屋茜は、

(守屋茜)『大半は結構、代役を立てるっていうのに賛同する子は少なかった。私もその一人。誰かができるものじゃないっていうか、平手だから成立していると思ってる』

と話していたし、別の場面でも、

(守屋茜)『平手がセンターだから、その子のために踊れるし、その子が映える振りができるって思ってた。だからいなくちゃできないって思ってた側なんですよ』

と発言していた(それに続けて、『2年たってそこの考えが変わったことに自分で驚いています』とも言っていたが)。

またそういう反応は、この映画の中でも最も衝撃的だと言っていい場面でも現れた。僕は欅坂46についてつぶさに追っているわけではないから、このエピソードがファンに知られているものなのか分からないが、たぶん初出なんじゃないかと思う。

2016年、インタビューで平手友梨奈はこんな発言をしていたという。

【『欅』っていう漢字は全部で21画なんですよ。21人は誰一人、欠けちゃいけない存在なんです
(その運命のいたずらとしか思えない偶然を、平手はうれしそうに語った。これだけはどうしても伝えたい、自分にとっては何よりも大切なことなんだという表情で―。】「BRODY 2016年12月号」

そんな彼女が、たぶんだがまだ誰も卒業メンバーが出ていない2017年というタイミングで、メンバーに対して、欅坂46を一旦離れるという決断を伝えている。12月31日をもって、一旦距離をおこうと。

(尾関梨香)『全力で止めました』

(原田葵)『そういう話になるだろうなって想像していたのかもしれないけど、それでも受け入れられませんでした』

(不明)『離れないって選択はないの?』

(不明)『センターだからとかそういうことじゃなくて、素直に平手にいてほしい』

平手はメンバーに対して、「自分ばかり目立ってしまって…」という説明をしていたようだが、それについては以前インタビューでも語っていた。

【はい。その思いは強いです。でも、なんていうか…センターばかりが注目されるのが怖いときもあって。私よりもいい表情だったり、すごいパフォーマンスをしているメンバーもいるので、全員を見てほしいっていう思いがあります】「BRODY 2016年10月号」

【私に直接言う子はいないけど、メンバーによっては「私、映ってないから…」と漏らしている子もいるみたいで、そういうのを聞くと、それはまあそうだよなぁ、と思うし。だから、悩みとかも、人には言わないようにしてるんです】「AKB新聞 2016年12月号」

平手友梨奈という人は、たぶん、自分自身のことであれば限界を超えるところまで我慢できてしまう人なのだと思う。映像の中でも、満身創痍で、両肩を支えてもらわなければ歩けないような状態のままステージに上がり、圧巻のパフォーマンスを見せ、その後舞台裏でまた倒れ込むという場面が何度も描かれている。一方で、欅坂46という存在に対して非常に思い入れが強く、だからこそ、グループに迷惑を掛けてしまう自分自身の存在を許せずにいたのだと思う。

【―この前のインタビューでは、「恩返しをしなきゃいけないから」って言ってたよね。その感覚は今もまだある?
ああ、それはずっとあります
―もしかしたら、欅坂に入った最初からずっとあるのかな?
ああ、それはそうかもしれない。それこそずっと支えてくれたスタッフさんとか、メンバーとかに、恩返しをしたいっていうのはずっと思ってます】「ロッキンジャパン 2019年6月号」

彼女の行動は、どんなふうにも切り取ることが出来て、多面性がある。やはり、鮎喰響と似ている。鮎喰響は、彼女のパーソナリティを知らない人間がチラッと情報に触れただけなら、最低最悪の人間に映るだろう。しかし彼女は、自分なりの判断基準を明確に持っていて、信念を抱えて生きている。平手友梨奈も、まったく同じように見える。

結局平手友梨奈は、2020年の年始に、脱退を発表することになる。その後の変化について、インタビューでこんな風に語っていた。

【(Mrs.GREEN APPLEの”WanteD!WanteD!”のMV出演についての話)―やってみて、自分とはしてどうだった?
やっぱりいろんな人から…それこそ笑ったりとかしてるから『欅坂抜けてよかったね』『抜けたから笑顔でやってる』ってたぶん思われてるんですけど。あれはただ単に楽曲がそうだし、楽曲から生まれた表情だったり、動きだったりするから、『別にそこは関係ないのにな』って思ってます。ああいうアップテンポの楽曲をまずやったこともなかったし、ちょっと洋楽っぽい感じも、ちょっと皮肉な歌詞も初めてだったので。なんて言うんだろうな、自分にとって全部新しかったし、新鮮だったから、いろいろやれたし、いろんな表情もできたし、生まれたんだと思います。だからほんとに、楽曲のおかげですね】「ロッキンオンジャパン 2020年10月号特別付録」

仕方ないこととはいえ、やはり、「欅坂46を脱退したこと」が、あらゆることと結び付けられてしまう。彼女としてはきっと、今でも欅坂46というグループに対する愛情は強く持っているはずだと思うから、こういう見られ方は不本意だろう。

一方、彼女自身にもある気づきがあったという。

【―もうそろそろ最後だけども、欅坂の平手友梨奈の頃は、やっぱりいろんなものを背負ってたよね。グループで表現したいこと、欅坂に求められていることを届けなきゃいけないし、インタビューで「欅坂に恩返しをしなきゃいけない」っていう言い方をしていた時もあった
うん
―これはしゃべり方がすごく難しいかもしれないけども、今、そういう気持ちは平手の中に今もあるの?それともなくなってるの?
なんかよく、スタッフさんだったりとかにも、それこそ『欅やめて、背負ってた荷物は下ろせましたか?』とか、『ひとりになってから、だいぶラクなんじゃない?』って言われるんですけど。で、私もぶっちゃけ、『やめたら少しは下りるのかな』って思ってたけど、むしろ逆になっちゃいましたね
―逆っていうのは?
さっきの言い方ですけど、別に背負ってた荷物は下りやしなかった。で、今もしてない
―下りはしなかったよね。今も下りやしないよね。
まあでも、『荷物下りたね』とか『相当プレッシャーだったんだね』『頑張ったんだね』って言われるけど、やっぱり自分は、そこに関しては『うーん…』って感じなんですよね。特に『いや、そうなんですよ』みたいな共感とか『ほんとつらかったんですよ』とか『ほんとにラクになりました』みたいな感情は一切生まれなくて、っていう感じですかね
―でも、それはどこかでわかってたよね。きっと。
どうなんですかね。それこそさっきの話じゃないけど、話したところで理解してくれる人なんてなかなかいないと思うし…別に大変さは今も変わらないから…『下りたわけじゃないのになあ』みたいなことはどっかで思ってました
―ここは難しい言い方だけど、平手は欅坂だったから荷物を背負ったわけじゃないんだよね。さっき言ったように、もともと行きにくかった。2万字インタビューでも「もともと何もなかった」って、それしか平手は言ってない。だから欅坂になった。だから欅坂がなくなったところで最初っから背負ってたものは下りないよね。
ああー、そうかもしれないですね
―何も変わらないじゃん、この重さ、っていう。「これ、欅坂のせいじゃなかったんだ、わかっちゃいたけど、これ、私の重さだったんだ」っていう。そういう受け入れみたいなものがあったのかなと思って。
まあ、欅の時は欅で、背負うというか、いろいろ考えなきゃいけないことはあったけども、確かに小柳さん(※インタビューアー)がおっしゃったとおり、もともと背負ってたものがあって、だんだんおっきくなっていったのかもしれないし、そのままなのかもしれないしって今は思います】「ロッキンオンジャパン 2020年10月号特別付録」

つまり平手友梨奈は、欅坂46加入以後抱え続けてきた不安について、それは“表現”に関わるもので“欅坂46”と関わるものではなかったということに気づいたのだ。彼女は、「今19歳の平手にとって「表現」ってなんですかって言われたらなんて答える?」と問われて、【…世界にいる以上…人に…何かを与えられる存在でなきゃいけない、かなあ。】「ロッキンオンジャパン 2020年10月号特別付録」と答えている。彼女が、そういう存在として世界と対峙し続ける以上、逃れられないものだということを自覚できたきっかけでもあったようだ。

ドキュメンタリー映画は、基本的に時系列を追って進んでいく。その理由の一つを監督はパンフレットの中でこう語っている。

【インタビューから紡ぎ出される心境からあらためてライブ映像を見直してみて感じたのは、その時々のメンバーの心情が、もろにライブへと反映されていることでした。ダンスのテクニカルな面もさることながら、とにかく自分の感情をストレートにぶつけないとパフォーマンスにならない。逆にいうとパフォーマンスをつぶさに見ていけば、そのときのグループの状況が、ある程度は類推できる】

そんな理由もあってこの映画では、ライブのパフォーマンス映像をふんだんに挿入しながら、その時々のメンバーの感情を浮き上がらせようとする。

その中で、8枚目のシングルである「黒い羊」に関しては、映像全体の中でかなり最後の方に置かれた。それについては、なんとなく納得感がある。「黒い羊」の歌詞が、平手友梨奈と欅坂46との関係性みたいなものを、否が応でも浮き彫りにするからだ。

<そうだ僕だけがいなくなればいいんだ>

<全員が納得する答えなんかあるものか>

グループの置かれた状況とそのパフォーマンスがリンクするということであれば、「黒い羊」という曲はまさに、「平手友梨奈の受容と解放」の激動が生み出した奇跡みたいな曲だったといえるだろう。

(渡邉理佐)『今まできっと自分をたくさん犠牲にして、伝わるパフォーマンスを行うことにかけていたと思うので、これからは自分が幸せになるために時間を使ってほしい』

という楽な気持ちで生きられるかどうか分からないが、欅坂46を離れたことで、平手友梨奈という個人が繰り出す“表現”は大きく変わっていくことだけは確かだろう。

映画では、2020年7月に行われた無観客ライブと、その後の再出発宣言についても触れている。「過去のイメージが最大のライバルになってしまう」という1期生や、「0からグループを作り直せる」という2期生の発言などを織り交ぜながら、新しい道への決意を覗かせる。

(菅井友香)『でも、必要としてくれる方、応援してくれる方がいる以上は、頑張りたいです』

「平手友梨奈という受容」に苦しみ、「平手友梨奈の解放」を受け入れた欅坂46というグループが、名前を新たにどんな存在として立ち現れてくるのか、そして、平手友梨奈という個人が今後どんな表現を生み出してくれるのか、楽しみにしていきたいと思う。

(TAKAHIRO)『―大人の責任ってなんでしょうね?子供たちに対しての
見続けることじゃないでしょうか?ずっと見守るということ、それこそ点じゃなく、長く続く線として』
ナガエ

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