KnightsofOdessa

ジュ・テーム、ジュ・テームのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

5.0
[記憶の曖昧さと発作的時間旅行] 100点

圧倒的大傑作。ゴダール『アルファヴィル』、トリュフォー『華氏451』に比べると、1968年という特殊な年に生まれたばかりに興行も失敗して不遇の扱いを受ける"呪われた映画"。上記二作品が文学をSF映画に持ち込んだのに対して、本作品では記憶や時間を持ち込むことで、カート・ヴォネガットよりも先に"全時間を生きる発作的時間旅行者"の物語を完成させてしまったのだ。自殺未遂をして病院にいるクロードは、退院と同時に怪しい男たちにある実験へと導かれる。それは、ちょうど1年前に戻って1分間過ごして戻ってくるというもの。タイムマシンは釘の刺さったニンニクみたいな形をしている、未だネズミしか成功してないなどと怪しさ満点だが、失うもののないクロードは実験を引き受ける。

時間旅行と言っても、釘ニンニク装置がターディスの役割を果たすわけではなく、上記の通り『スローターハウス5』的な記憶旅行になる。つまり、本質的な語り口は『去年マリエンバートで』と変わっていないが、ロブ=グリエが同作には"決定的に正しいたった一つの見方"があると言っているのに対して、本作品はバラバラに分解された記憶の断片が散乱し、無限に登場するそれらの繰り返しの中に少しずつ差異が加わっていくことで、記憶の不確かさやいい加減さなどを提示する。その意味では、何度も訪れる同じ時間同じ場面を"演じ直している"ビリー・ピルグリムに比べると、本作品のクロードは場面の結末を知らずにその瞬間を"生きている"ように感じる。主人公が全能の語り手とはなり得ないのだ。

発作的時間旅行は、ほぼ全ての時間をカトリーヌとの時間に費やす。彼女との出会い、蜜月、喧嘩、バカンス、死別とその後。それらの往来にこれといった関連はなく、起点となる"1年前"に引っ張られたのか、1年前のバカンスで訪れた海のシーンが度々登場する。クロードは海から上がってシュノーケルを外すのだが、両手で外したり片手で外したり、外した後洗ったり洗わなかったりと反復にも差異が出てくるのは先述の通り。一度しか登場しない記憶も、別れた悲しみや辛さによって歪められ、書き換えられている可能性すら棄てきれない。強制的に引き起こされた『憶えてる?』(ヴァレリオ・ミエーリ)のような見方も出来るだろう。次第に記憶自体が融合したり、ネズミ(未来の記憶)が介入してきたりと過去の解釈が自由に変化していくのも興味深い。

発作的時間旅行は過去を改変したのか。『エターナル・サンシャイン』のような記憶=過去に自我が介入するなんてことは不可能であり、結局戻ってきたクロードは自殺直前のように衰弱しきっていた。しかし、映画は突然彼から興味を失ったかのように、一緒に戻ってきたマウスのクローズアップで幕を下ろす。透明な籠に囚われたマウスはどこの時代からやって来たのかも分からず、自殺という概念も存在しない。映画の中で、この小さな生物だけが"現在"そして"未来"を生きることに対して、そうと知らずも前向きだったのかもしれない。
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