Iri17

哀愁しんでれらのIri17のレビュー・感想・評価

哀愁しんでれら(2021年製作の映画)
3.6
noteに詳しくまとめたので以下コピペです。

この映画は実は『Swallow/スワロウ』とかなり似ているし、実は昨年公開した『ミッドサマー』とほぼ同じ話で、『アンナ・カレーニナ』と同じようなテーマを扱っているのだが、これらの作品のような感動やカタルシスは正直ない。それはこの映画がある一つの部分に重大な欠点があるからだ。

まずあらすじにある信じられない災難なのだが、本当に信じられないのだ。家族と仲睦まじく暮らしていた主人公の小春。ある夜、祖父が病気で倒れ、家族で病院まで運ぶ(なぜ救急車を呼ばないのかは不明)。しかし搬送の途中で飲酒運転の自転車のせいで事故に遭ってしまう。さらに慌てて家を出たので火の不始末で家が全焼してしまう。帰る家がなくなってしまったので、彼氏の家に向かうが、彼氏の家では職場の先輩と彼氏が絶賛浮気中であった。これほどまでに短期間で不幸が重なるのはいくらなんでも不自然では?

彼氏の家を後にしたあと踏切で酔っ払った男性が倒れているのを発見し、助け出す。その出来事をきっかけに助けた男性、大悟と交際を始める。医者である大悟は妻を事故で亡くしており、一人娘のヒカリと大きな家で暮らしている。小春はヒカリにも気に入られ、結婚することになった。

小春は幼い頃に母親に捨てられており、そのトラウマから母親であることに並々ならぬプレッシャーと不安を感じている。

結婚してほどなくして、ヒカリが問題を起こすようになる。弁当を食べずに捨てたり、筆箱を盗まれたと虚言を吐き、そのことを隠蔽する、追求すると喚き散らすようになり、小春は追い詰められていく。また大悟も子供の時のペットのウサギを剥製にしていたり、自分の全裸のスケッチを30年以上描き続けて壁に飾っているなどキモい一面が散見されるようになる。

小春は自分の歩んできた人生に母親の存在が欠落していたことから、母親としての自分に自信がない。母親が自分の手を振り解いて去っていた姿が今も鮮明に残っているから、自分は「良い母親」でいなければならないという抑圧を感じている。

「良い母親」の理想に抑圧された小春は精神的に追い込まれていく。学校で好きな男の子に気にかけてもらえないヒカリは遂に一線を越え。好きな男の子と仲の良い同級生の女の子を教室の窓から突き落として殺してしまう。目撃者はいなかったので、ヒカリの犯行が公になることはなかったが、葬式でも頑なに赤い靴を履き、亡くなった子に「邪魔ばかりするからゲームオーバーになった」と言うヒカリに小春は不信感を感じる。

さらに、偶然ウサギの剥製を倒して耳を破壊してしまった小春に対して「いーけないんだーいけないんだーww」と大声で囃し立てるヒカリ。あまりのウザさに小春は勢い余ってヒカリを殴ってしまう。その場で謝罪し、だいごには言わないという話になったが、ヒカリは即座に大悟に密告。大悟は激怒し、「母親失格です!出ていってください」と切り出す。

「行かないで!」と懇願するヒカリの手を振り解き小春は家を後にする。

クソガキャ...お前のせいだろうが...

もう実家にも小春の居場所はなく、小春は街を放浪するうちに大悟を助けた線路で倒れてしまう。



この映画は時間の経過とともに自分が軽蔑していた他者と自分が一体になるという構成を取る。

①虐待の疑いのある母親に「母親失格」と罵る→後半で自分が「母親失格」と罵られることになる
②自分の手を振り解いて母親が去る→ヒカリの手を振り解いて家を去ろうとする
③線路で倒れる人を助ける→自分が線路で助けられる

このように軽蔑した他者の姿が自分と重なっていく。

またこの映画は三幕構成の体裁を取っている。

①不幸な人生から結婚による幸せなシンデレラストーリー
②夫や娘の隠れた一面が露になり、幸福が失われていく
③抑圧から逃れるために抑圧する側に回った主人公の顛末

ここで着目したいのが、②と③の転換点である。

線路に倒れて今にも人生が終わろうとしているというモチーフはロシアの文豪トルストイの『アンナ・カレーニナ』のオマージュだと考えられる。帝政ロシア時代、サンクトペテルブルク貴族のアンナ・カレーニナを女性や貴族の妻としての抑圧に抗い、若い将校との不倫に溺れるが、結局はあらゆる抑圧の下に踏みつけられ、最後は自ら列車に身を投げる。

『アンナ・カレーニナ』は不倫という神との約束や人としての道義に反く人間は不幸な結末を迎え、質素な生活でも他人や神のために生きる人間に幸福が訪れるという主題である。アンナは抑圧から逃れるための快楽に身を滅ぼしたのだ。

しかし、小春は線路で倒れるが、大悟に助けられる。大悟もかつて小春に助けられて線路で。

これ以降、3人はどんどん転落していく。学校にクレームをつけて自身が軽蔑していたモンスターペアレントになってしまい、ヒカリの殺人の疑惑も深まり、世間から孤立する。

追い詰められた大悟と小春は小学校のインフルエンザワクチンに高濃度のインスリンを混ぜて児童を皆殺しにする。生きている人間が誰もいない小学校で3人は遂に一つの家族になることが出来たのだった。

第二幕と第三幕の転換点である線路で、小春が助けられてからの展開は新解釈アンナ・カレーニナのような展開だ。抑圧された人間が、抑圧から逃避することも打ち勝つこともなく、抑圧する側に回った時に起こる最悪の結末だ。しかし、あくまで3人にとっては幸福な結末であって、犯罪を犯す人間の独善さとはまさにこういうことなんだろうと思う。

小春が家を追い出されて実家に戻った際に貧乏で質素ながら幸せそうに笑い合う家族を見て、自分の居場所はないと感じて家を後にするシーンは、『アンナ・カレーニナ』で貴族の立場にありながら嫉妬や不安、身勝手さで狂い身を滅ぼしたアンナの対比として描かれる、裕福な生活を捨てても愛する妻と一緒に農村で暮らすリョービンとキティを彷彿とさせる。

女性であることや母親であることの抑圧を描いている点で『Swallow/スワロウ』と共通のテーマを扱っているとも言えるし、日常が一つの不幸によって破壊され、それが起点となって狂気的な幸福へと向かっていくプロットは『ミッドサマー』(2019)とも類似している。

普遍的で現代的なテーマをスリラーの中に落とし込んだ今作は、大きな問題を孕んでおり、個人的には手放しで賞賛することは出来ない。それがクソガキャ...問題である。

この映画の家族が抱える問題は親との関係や幼少期のいじめなどに原因があるのだが、そこの描き込みが浅く、基本的にヒカリがクソガキ過ぎるという問題に集約されてしまう。ヒカリも母親を幼い時に亡くしているので、虚言癖や支配欲求などもこれが原因ではあるのだが、あまりにクソガキなので、見ている側は「このクソガキャ...」となってしまう。

そもそも小春のギャグ漫画のようなあり得ない不幸の連続も、何か意味があるかと思いきや、別にそういうものはないらしい。大悟の前妻の事故の件も詳しく言及されずよく分からない。なので大悟は基本的にちょっとキモめのヤバいやつくらいの人間くらいにしか描かれない。しかし大悟に比べれあまりにヒカリがクソガキなので、途中から『オーメン』のダミアンに見えてきた。ダミアンは悪魔だからいいのだが、蓋を開けてみると普通の子供が原因で大量殺戮が起きましたというような映画になっていて残念だ。僕は子供がどういう人間に育つかは環境や教育によって決まると考えているので、ヒカリの異様な悪のポテンシャルの高さはちょっと受け入れられなかった。

基本的には完成度の高い映画なのだが、大きな部分で致命的なミスをしていて残念な映画だった。