ブタブタ

太陽がいっぱいのブタブタのレビュー・感想・評価

太陽がいっぱい(1960年製作の映画)
4.0
まず最初に『太陽がいっぱい』の映画を多分テレビで見て、ずっと後にパトリシア・ハイスミスの原作を読んだ。
話しは同じなのに主人公のキャラクターから作品の根幹みたいな物がまるで違うのはPKディック『アンドロメダは電気羊の夢を見るか?』とリドリースコット『ブレードランナー』と同じ感じがした。
原作『才能あるリプリー氏』と映画『太陽がいっぱい』は基本設定やストーリーは同じでも中身は完全に別物と言っていい。
古典であり傑作の『太陽がいっぱい』にはケチをつける所なんてありません。
淀川長治氏は「完全なホモセクシャル映画」と評してましたが、自分はちょっと違うと思っててリプリーとディッキーの関係は男子校的なホモソーシャルの主従関係であり、ある種の同性愛的感情もあったと思うのですが、それ以上にディッキーの「持てる者・支配者」からのリプリーの「持たざる者・被支配者」への蔑みとそれでいて使える奴だと認めてる部分もあるし、美しいリプリーへの歪んだ欲望、支配欲や特権階級である己のアイデンティティを確認する為のアイテムと言うか「オモチャ」としてリプリーを傍に置いているのだと思う。
リプリーへの異常とも言える「虐め」はディッキーのサディスティックな性癖と同時に、そこ迄されても自分に屈し続けるリプリーへのねじ曲がった愛情表現にも見える。
ヤンキー的な主従関係であり、虐める側がよく言う「遊んでやってる、可愛がってやってる」
美しいリプリーへの責めにディッキーは間違いなく性的興奮を覚えているだろうし、それを甘んじて受けるリプリーにも何処か歪んだマゾヒスティックな快楽とSMの主人と奴隷の様な、と言うより完全にこの二人は「主人と奴隷」の関係だと思う。
だからこそヨットの上で二人だけ、その立場が逆転する迄の異様な緊張感とディッキーを殺す場面の、それ迄虐げられていたリプリーの鬱屈や苦痛、屈辱が爆発する瞬間が最高に気持ちよく「殺人」と言う行為に見てるこっちも快感すら覚えてしまう。
リプリーの計画は原作と違い基本行き当たりばったりで、破滅へと帰結するのも当然だったと思います。
ニーノ・ロータの音楽とアラン・ドロンのこの世のものとは思えない美しさ。
なので『太陽がいっぱい』のリプリーはこの1作で終わり、なのが相応しいと思い返す。

〝天才的犯罪者〟〝自由人〟トム・リプリーのシリーズは全5作『才能あるリプリー氏』『贋作』『リプリーのゲーム』『リプリーをまねた少年』『死者と踊るリプリー』があり、原作のリプリーはアラン・ドロンみたいな美青年でないしマット・デイモンみたいな哀れなゲイ青年でも無い。
顔に特徴はなく、死者と踊る~の解説にありますがカタツムリの様な雌雄同体の様な人物で掴みどころがなく、バイセクシャルでもないのに男とも女とも寝る事も厭わない。
幾多の犯罪を犯しながら飄々と逃げ遂せる。
イメージ的には江戸川乱歩小説に登場する「怪人」たち「影男」や、必要なら殺人も簡単に実行する残忍冷酷さは「蜘蛛男」
パトリシア・ハイスミスの『リプリー・シリーズ全5作』のドラマシリーズ化が決まった様で。
「その怪物性はハンニバル・レクター博士を凌駕する」とは河出文庫『死者と踊るリプリー・新装版』の帯文なのですが、既に何本も映画化されてる『リプリー・シリーズ』、しかしながら「トム・リプリー」と言う稀代の天才犯罪者のキャラクターを忠実に実写かした物は1本もありません(ジョン・マルコヴィッチの『リプリーゲーム』は未見)
なのでドラマ版は原作のあの怪物的犯罪者、レクター博士をも超えるトム・リプリーを見せて欲しいです。
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