今年劇場で観た邦画では、「私をくいとめて」に並ぶ大傑作。
鑑賞中にざっくり捉えた構造としては、「『細雪』なのかと思っていたら、ダイアン・キートン視点で描かれた『ゴッド・ファーザーI・II』だった」というところ。
(「ゴッド・ファーザー」と違って、戸が開きっぱなし→F.O.ってのがよかった)
もちろん、それだけでは本作を何も言い表してない。
登場人物は、ほとんど台詞がない端役に至るまで、とてもリアルだし(「あ、こういう人知ってる」って、俺、ほぼ全員に対して思った)、小道具・アイテムのとてつもない饒舌性。
本作でさらにエキサイティングなのは、この映画を多面的な比較社会学的考察として鑑賞することもできるって点。つまりは、異なる社会階級の比較、過去と現在あるいは伝統と改革の比較、中心と周辺の比較、などなど。
中心と周辺については、第一章と第二章の副題からもかなり明確に意識してるんだろうけど、比較論かと思ってたら、終盤ではそれが翻って相似形であると指摘される。もう、「どひゃ~!」ですよ。
でもって、それらが多面的に描かれることで、本作は東京論かつ現代日本論にもなってる。もう、唸るしかないですね。
それから、サイレント映画かと思うくらい、「画」が語る情報量の膨大さ。
もちろん本作には台詞はある。けれど台詞以外の、つまりそれは役者の演技だったり、さっき書いた小道具やアイテム、それに風景やシチュエーションなどなど。それらが語る情報が非常に多い。
2度3度見返すと、もしくは一時停止できる環境で観ると、確実に毎回新たな発見ができるはず。
言い換えると、本日の初見で見逃している情報は、数多くあるはずで、それを自覚しながらも偉そうにレビューなんぞ書いちゃってますわ、私。
ちょっと脱線していいですか。
今、「一時停止できる環境」って書いたけどさ。Netflixでもほかの配信サービスでも、なんで一時停止すると、画面が暗くなっちゃったり、でかでかとタイトルが出ちゃうわけ?
あれは何ですか。我々が一時停止する状況ってトイレに立つとか、電話が鳴ったとか、そういう画面を見ない状態しか想定してないんですか?
そんなもん、映画ファンが一時停止する最大の理由は、「画面上のアイテムを仔細に確認したい」とか「本棚の本の題名をしっかり確認したい」とかに決まってるじゃん?!
暗くされると読みにくいっての! タイトルが重なってくると見えなくなるっての!
そういうところ、配信サービスの会社の人は、どうかどうかご理解ください。
ついでに、Netflix。あんたにもう一つ。
エンドクロールが始まった途端に別の候補作品出すの止めて! あれ、無操作で10何秒か放置すると、映画終わっちゃうじゃん!
Fire Stickで観てるとさ、いちいち「今はどの配信を観てるか」なんて意識しないから、Netflixでエンドクロールに入った瞬間、ガバと起き上がってリモコンを探し出して「クレジットを見る」を選択しないといけないので、非常に面倒なのですよ!
確実に映画業界に新しい流れを作ってるネトフリなので、ものすごく感謝してるんだけど、おまえのそういうとこ、ほんっとダメだかんなっ!
はい。脱線終わり。
で、どこまで書いたっけ。
あ、そうそう。「画」の情報量ね。
一つだけ小さい例を書くと、一瞬だけ2003年版の慶應の赤本が映りますよね。
あれがあるから希子ちゃんの年齢が計算できる。で、こっちは台詞で出てくるんだけど、麦ちゃんの27歳より少し上ってわかるんだよね。
さらに本作を褒めると、「画」に対する台詞もとことん見事なのよね。
もう、いい台詞のテンコ盛り。
これはいちいち書かないけど。
あと、名前ね。作品内でも「幸一郎」については言及されるけど、「華子」もよいですね。
そうなんですよ。あれくらいのお金持ちは、古風で平凡な名前をつけるんですよ。間違ってもキラキラネームなんかつけない。
松濤じゃない別のお金持ちエリアなんだけど、まさに「華子」って知り合いがいますわ。
古風だけど「花子」じゃなく「華子」ってところが、ミソなんだよね。
ま、そんな風に、どこを取っても本作には、減点するところが全くない。
実に見事な映画です。
「俺の観たい邦画ってこういうのだ!」って、しみじみ思った。
最後にひとつ。
邦画では珍しく、「オズの魔法使」が登場しましたね。
俺も、高良くんに対しては最初から、「こいつ、口だけで、絶対観ねえぞ」と思ったけどね。
あ。
最初に「細雪」って書いたけど、娘の結婚っていうとなんつっても小津映画じゃん!
おお、「オズ」からの「小津」目配せだったのか~!←いやいや、絶対違うだろ。