CHEBUNBUN

BEGINNING/ビギニングのCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

BEGINNING/ビギニング(2020年製作の映画)
5.0
【燃ゆる終わりの始まりは果てしなく】
昨年末から噂に聞いていたジョージア映画『Beginning』をMUBIで観ました。ジョージア出身の女性監督Dea Kulumbegashviliは長編1作目にしてカンヌレーベル作品として選出され、サン・セバスティアン国際映画祭やトロント国際映画祭などで話題となりました。彼女の短編映画『LÉTHÉ』ではブツブツ言いながら馬に乗って進むおじいさんからおもむろにジャガイモのようなものを奪い取る強烈な長回しが特徴的で、既に只者ではない風格がありました。しかし、彼女の初長編映画『Beginning』はその遥かに先をいく世界が待っていました。

白い教会にゾロゾロと人が集まる。そして神の教えの授業が始まる。荘厳で穢れなき空間は突如業火に包まれる。過激派が投げつけた火炎瓶によって地獄絵図となるのだ。人々は、袋の鼠となり、必死に窓ガラスを割ろうとするが、中々割れない。次のカットでは、荒ぶる業火とは対極にある草原が映し出される。大樹がそこにあり、側には女性がいる。周りでは子どもが遊んでいる。だが、フレームの外ではボウボウと業火の音が聞こえる。カットが切り替わると、人々が、心の拠り所にしていた教会が大炎上しており立ち尽くしている。その次の場面では夜になっても消えることのない炎が映し出される。と同時に、火災そっちのけで遊ぶ少年と、野次馬のように火災を見に行く少年が映し出される。事態の凄惨さをたった4カットで、紡いで行く演出だけでもこの映画の凄まじさが良くわかる。

そして、本作は心の拠り所を失ったジョージアのある村が再び心の拠り所を見つけようとする流れの中でストーリーが展開される。主人公のヤナ(Ia Sukhitashvili)は、この教会で指導者をしているデヴィッド(Rati Oneli)の妻だ。デヴィッドは教会再建に躍起となっており、妻のことを見ているようで何も見ていない。彼女の不吉の予感を無視してしまう。

そんな中、ある事件が彼女を襲う。これは実際に映画を観て確かめて欲しいのですが、安全圏である家の中で壮絶な暴力に遭うのだ。暴力とはいっても、精神的暴力である。それを不気味なカメラワークで、フレームの外側から容赦無く殴りつけてくる。これ以上に静かで怖い暴力はないだろう。

そして、この事件をきっかけに彼女の心象世界と思われる不思議で謎めいた映像が観客に提示される。彼女が森で寝る。写真のように静止した画が延々と続くのだ。トラウマが癒えるまで膨大な時間が必要なように、彼女が復活するまでの時間をじっくりと捉えてみせる。

さて、本作では意欲的なことに露骨なシャンタル・アケルマンの『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』オマージュが挿入される。突然、キッチンの場面となり、ジャンヌ・ディエルマンがジャガイモを退屈そうに剥くように、ヤナは果物を剥いて、薬らしきものを混ぜた不味そうなスムージーを作り始めるのです。

これはDea Kulumbegashviliによる映画批評ともいえる。『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』やマルレーン・ゴリス『A QUESTION OFF SILENCE』といった女性監督による抑圧された女性の怒りを捉えた作品は暴力的な方向にいきがちだ。

ただ、2020年代ではその発想は古くなってしまっている。安易な暴力は、消費につながる危険性がある。そして、暴力が新たな暴力を生む可能性があるのだ。『プロミシング・ヤング・ウーマン』がそういった抑圧された女性の怒りが生み出す新たな暴力を批判的に捉えていたのに対して、こちらはそうした政治的・社会的に複雑となってしまった抑圧と暴力に対して、映画的救いの手を差し伸べている。

母に助けを求めようにも、家父長制により「そんなこと誰にも言うんじゃないよ。」と自分が男の抑圧に耐えてきたことを無意識に棚に上げ、彼女を呪ってしまう。現実は残酷で、どこにも逃げ場がない。かといって直接暴力で現実を変える事はできない。そんな絶望的状況に対する、ヤナの呪いと思われる何かが引き起こすラストシーンに涙しました。

これは映画館で観たかった。今年暫定ベスト1の作品です。
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