平野レミゼラブル

アンモナイトの目覚めの平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

アンモナイトの目覚め(2020年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

【貴女がわたしを掘り出して。わたしを貴女は閉じ込めないで。】
その女、雷神の加護を受けて唯一生き残った赤子にして、幼少の砌より土奥より蘇らせし古来の生物と戯れ、種が絶えることを証明して「絶滅」の概念を確立させる……と書くと神話上の人物のようになる実在の化石採集者で古生物学者のメアリー・アニングの生涯とその愛を描いた二次創作伝記映画。
実際メアリーは生後15カ月で稲妻に打たれて生き延びた逸話や、12歳でイクチオサウルスの全身化石を発掘するなど神話級の伝説や偉業を残しており、女性の地位が極端に低く学会で本や論文を発表することすら許されなかった当時において、ロンドン地質学会の名誉会員に選ばれるほどに評価されました。
ただ、これらの功績は後世の再評価に至るまで一度は忘れ去られていたように、やはり当時の女性の立場を完全には打ち破れなかった人物とも言えるでしょう。映画ではその辺りの背景も多分に含まれており、ある種の女性自立及び同じく抑圧される身分違いの女性とのシスターフッドの要素もあります。


のっけから掃除婦を足蹴にしながら、メアリー・アニングの名が記されたイクチオサウルスの化石の発掘者タグが取られ、代わりに寄贈者の貴族のタグが貼られる大英博物館の貴族の姿が描かれるように、当時の女性の立場がいかに低かったか、その仕事が蔑ろにされていたかってのはハッキリと示してきます。
そのため、支配者層である男性と、抑圧される側の女性の対立構造という印象を受ける…んですが、実のところそちらはメインではない。ロデリック・マーチソンや医者など、女性をナチュラルに蔑視している厭~な男性も実際登場するんですが、彼らはいつの間にか物語からフェードアウトしているんですよ。後から考えると、ある種のミスリードのように思えてきますね、この冒頭は。
実際にメインとなるのは、「誰が」イクチオサウルスの所有者なのかということではなく、「何処に」イクチオサウルスが存在しているかということであり、詳しくは後述しますが、本作はメアリー・アニングのその業績を称えるための映画ってわけでもないのです。あくまで彼女が化石に何を投影して、どのように望んだかっていう部分を創作して描いたってことでして、割と普遍的な想いが込められていると感じます。

基本的には恋愛映画でして、アンモナイトを始めとした化石を掘り当てては日銭を稼いで暮らしているメアリーの元に、鬱病気味の貴族夫人シャーロット・マーチソンが転がり込んでくるところから始まります。
シャーロットの夫のロデリックは地質学者でもあり、今回の旅の目的もシャーロットの病気療養も勿論なんですが、一番はメアリーの発掘に同行することなんですね。ロデリックからしたら自身の知的好奇心を満たしたついでに、妻の治療にもなって一石二鳥ってことです。レストランのシーンでも顕著でしたが、マーチソン家はロデリックの自分本位で動いていることがわかります。
化石調査に満足し、再び中央の学会に戻るロデリックはシャーロットをメアリーに預けます。ロデリックの同行すら嫌そうだったメアリーにとってのシャーロットなんてお荷物そのもので、露骨に嫌がるんですが大金も払われるとあって渋々受け入れることになります。

くたびれながらもサバサバと男勝りなメアリーと、見るからに弱々しくて常に何かに怯えているようなシャーロットは正に対極。長年の発掘作業でゴツゴツとしたメアリーの手と、白く細っこいシャーロットの手が合わさった画なんか特に顕著でしたね。
価値観からしても、性格面からしても、まず気が合う筈がない2人でしたが、シャーロットが慣れぬ海水浴をして高熱を出し、それをメアリーが付きっ切りで看病して以降、少しずつ心を通わせることになります。
絶対に交わることがないと思われた2人ですが、お互いに「認められたい」、「束縛されたくない」という共通の価値観があったんですね。労働者と貴族夫人という視点の違いこそあれど、互いに求めていた価値観を尊重し合うことで愛が少しずつ育まれていきます。

面白いのが、愛を基軸にして2人の意外な性質も見えてくるというところ。サバサバしているかと思えたメアリーも、シャーロットが他の女性と話している姿を見たら嫉妬してしまう側面が出てきますし、俗世に疎い貴族と思われたシャーロットも、メアリーが掘り当てた化石の素晴らしさを滔々と説いて値を吊り上げさせて客に買わせる積極的な商才を見せます。
これは互いに影響されて性質が変化していったというより、2人の隠された本質が表層に現れていったのだと思います。男勝りに家計を支えなければならないという意識や、抑圧していた夫といった自己を妨げるものが消え、立場や価値観の違う2人が交わることで奥底に眠った互いの本質が表出していく。正に化石発掘のような感情表現と言えるでしょう。

映画全体の演出はかなり淡々としており、それこそ岩壁を地道に砕いていくような過程を経て展開していきます。かと思えば、2人が遂に結ばれる濡れ場はダイナミック。
僕はあまり映画での女性同士の濡れ場ってのは見たことがないので比較は出来ないんですが、かなり生々しいように感じましたね。キスからクンニへの移行部分とか、互いに貪るようにして交わっていく描写とか。
これまで描いてきた人物像からメアリーのこういった姿は想像付きやすかったんですが、蝶よ花よ…ってな感じだったシャーロットまで積極的な姿を見せつけられるのは中々背徳的な気持ちにもなりました。全てを掘り出したが故の激しい衝動って形で、物語においてもかなりのメリハリ。

一見、この濡れ場は2人の女性の本質が自由を得て解放された瞬間…とも取れますが、実際は掘り起こされた2人の本質って実は根本から相容れないよねという方向に持っていくのが中々痛烈。
夫のもとに戻ったシャーロットはしばらくしてからメアリーを呼び寄せるのですが、シャーロットは屋敷の一室をメアリーのための部屋に仕立て、当のメアリーの承諾を得ないままに一緒に暮らす算段を立てていたのです。
それはシャーロットが一番嫌っていた夫からの抑圧と同じ行動であり、抑圧を受けた側が知らず知らずの内に抑圧する側に回っているという構造です。思えば、メアリーと再会したばかりのシャーロットはメイドの前でも平気で抱き着き、「ただのメイドだから」と言ってのけました。要はこれって「労働者層=人間ではない=見られても問題ない」という貴族層故の無意識の差別なワケで……労働者層であるメアリーからしたら、シャーロットのその意識のズレは許せるものではなくなってしまいます。

こうした階層の違いも相当なズレではあるんですが、それ以上に浮き彫りになってくるのが発掘者と愛好家としての化石の向き合い方の違いです。
発掘者にとっての化石は価値のない岩の中からその価値を見出し、掘り出し洗い磨いて価値を付与するもの。化石に自由を与えて解放する者とも捉えることが出来ます。
一方の愛好家にとっての化石はガラスの中に閉じ込めて、眺めて楽しむだけのもの。化石の自由を奪い独占する者となります。
発掘者メアリーと、愛好家シャーロットのスタンスの違いは、そのまま2人の愛の在り方の違いにも通じることになり、化石に自由を与えたいメアリーは自分自身の自由を奪われることを明確に拒むことになるのです。

ラストシーンで再び映されるイクチオサウルスの化石は正にその象徴。
イクチオサウルスは現在、発掘者であるメアリーの手を離れて大英博物館のガラスケースの中にあります。功労者であるメアリーでさえも、大金をはたいてロンドンにまで向かわなければ会えなくなるくらいに遠い存在となってしまいました。メアリーにとっても大切なものだったようですが、生活の糧とする為に売り払った経緯があることは作中でも語られている通り。つまり、メアリーにとっての自由を奪ってしまった後悔こそイクチオサウルスなのです。

そして、そんな後悔の象徴を眺めるメアリーの向かいに現れるのがシャーロット。シャーロットもまた、メアリーの自由を奪おうとして彼女から拒絶されたことへの後悔を抱いているわけです。
イクチオサウルスを閉じ込めるガラスを通して対峙する2人は、同じ化石を見て、同じ後悔を抱いている。しかし、ラベルを貼り替えられたイクチオサウルスが、再びメアリーの元に戻ることがないように、シャーロットが再びメアリーと結ばれることはないワケです。
相手の顔を覗えるガラス向かいでありながら、永遠の分断となってしまった虚しさを残しつつ物語は幕を閉じるのです。



一応、注意してもらいたいのは史実のメアリー・アニングに同性愛者という記録は一切なく、劇中での2人の関係も全くのフィクションだということですね。
この創作設定が色々物議を醸しているようですが、個人的には映画というフィクション媒体である以上は大胆に創作してもいいんじゃないか派閥なのでそこは別に良いかな。『アマデウス』におけるサリエリとか、創作で大衆の認識が変わってしまう恐れもあるけど、こればっかりは本当にどうやっても避けられないところでもあるので……だったら、表現の自由の方を尊重したいなと思う次第。

ただ、メアリーが同性愛者であるという発想元はおそらく、彼女が生涯独身を貫いた部分のほか、「女性の立場が皆無な学会においてメアリーが名を残したのは、彼女が貴族の奥方を中心にした女性ネットワークを築き上げたからに違いない」みたいな憶測だと思うので、やっぱりこの改変部分はデリケートに過ぎるところでもあるんですけどね……