フランソワ・オゾン監督作は『危険なプロット』『彼は秘密の女ともだち』に続いて3作目の鑑賞。
この監督のあまり健全でなくヌルッとした、だけどとんでもなく純粋で地味〜な情熱の描写と、作品の核を台詞やストーリーラインではなく俳優の演技に乗せて描ききる言葉足らずさが大好きです。考察せずには居られない。今作も最高でした。
内気な少年アレクシが奔放な青年ダヴィドに出逢い激しい初恋に身を焦がす一夏の模様が、現在の地獄パートと幸せの絶頂である過去パートを行き来しながらミステリアスに描かれる。この構図がまず好き。
アレクシ(アレックス)
友達のクリスに何の躊躇いも遠慮も無く彼女とのデートを優先される。船使って良いよ!じゃあね!って感じで軽〜く。冒頭から既に古い靴下扱いされてるアレクシ…。
掃除を頑張るお母さんに「休んだら?」と声を掛けたり、引越しするんじゃなかったと嘆く彼女を傷心中にも関わらず優しく宥めたりと、とにかく良い子であることが伺える。エジプトの死生観を知って死に惹かれるようになったという言葉通り、ベッドサイドの壁にはエジプト関連の切り抜きがベタベタ貼ってある。優しい両親に穏やかに愛されており、文才はあるがそれ以外には特別情熱を傾ける事柄も無く将来やりたい事も見付けられない、純朴で垢抜けない、同級生達に比べて精神的にどこか幼い少年であることが分かる。
ダヴィド
懐の広い天然の人たらし。17歳で父親を亡くして学校を中退し、亡き父の意思を継いで経営者に。心配性だが見たいものしか見ない母親とは心が通っておらず、孤独感を持て余して一年間荒れに荒れ、その時その時の感情に全力で身を任せて生きる無謀で奔放な少年。ようやく少し落ち着きかけていた所で盲目的に自分を必要とし求めてくれるアレクシに出会う。
惹 か れ 合 わ な い 筈 が 無 い ん で す よ ね。
正反対の二人。お互いにお互いの存在がどれほど眩しく魅力的に映ったか。その上更に顔と体も良い。初恋相手には少しヘビー過ぎた。お互いに。遊び人のダヴィドにとってもアレクシは初恋の人だったんじゃないかと思います。喉から手が出る程に欲しかった。ただ傍に居るだけで満たされるダヴィドと、どれだけ傍に居ても満たされないアレクシ。すれ違ってはいないんだけど、アレクシを完全に手に入れた事で満足したダヴィドにとってのアレクシは、早々にただの背景に…古い靴下になってしまう。終わりの始まり。物凄く悲しい展開ですね。
もちろんダヴィドには終わらせる気なんてなかったんだろう。アレクシは俺のものだけど俺はアレクシのものじゃない。ダヴィド的にはアレクシが文句を言わず今まで通り一番傍で自分の孤独を満たしてくれながら、新しい誰かと新鮮な駆け引きを楽しみ続けるのが理想だったんだろう。古い靴下ってまさにな例えだったよな。俺は履き心地の良いこの靴下(アレクシ)を履いて新しい靴(遊び相手)を履きたいんだよと。クズです。
ただダヴィドはアレクシに対して何の駆け引きもしていなかった。アレクシに本当に飽きて思慮を欠いていた。だからアレクシが激怒した時は内心びっくりしたでしょうね。アレクシに対して「飽きた」と本心を伝えながらも涙をこぼしていたダヴィド。
本当は「だけど愛している」とも言いたかったんじゃないの?
アレクシが飛び出して行ってからそれに気付いた。
全くありがちで陳腐で死ぬ程悲しいけれど、失って初めてアレクシの大切さを噛み締めたんじゃないの?
ダヴィドはスピードの彼方の泡の中に入ってアレクシに謝りに行きたかったんじゃないの…?
また先生の存在が良かったですね。地獄に仏。出てきた時は危険なプロットかなと思ったけど、ジェルマンよりちゃんとした大人。あの先生が居なかったらアレクシは本当にヤバかった。更生施設に送られて一生ダヴィドとのことを引きずりながら地獄の人生を生きてたかもしれない。
ダヴィドは先生と付き合ってたような口ぶりだったけど、先生は教師と生徒だったよと。どっちが本当なのか。これは原作小説『おれの墓で踊れ』を読むしかない。原作があるとこういう楽しみ方が出来るのでありがたいです。
最後、どこかダヴィドっぽく笑うアレックスに出会う。
そうだったな…。誰かを好きになる度、少しずつその人の要素が自分の中に溶け込んできた。その要素は多分、その人の一番好きだったところであり疎ましく思った部分でもあった。
人は自分に無い部分に惹かれて恋をする。
恋は不毛では無く、どんな悲惨な終わりを迎えても確実に出会う前の自分とは全く別の要素を自分の中に吸収する。
それを心の傷にするか成長に出来るかは自分次第。
アレクシが迎えたこの恋の終わり方がまた、とんでもなく良かったです…。