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スパイの妻のryosukeのレビュー・感想・評価

スパイの妻(2020年製作の映画)
4.3
ファーストカット、白と黒の対照的な衣装に身を包んだ二人の人物の間を割って単調なリズムで進む憲兵。この物語において、夫婦二人の間に割り込み、引き裂いていく「何か」はこの時点ではっきりと具象化、視覚化されている。
序盤はやっぱりテレビドラマ仕様で黒沢濃度は薄めだろうかと思っていたが、例えば「回路」で開かずの間にテープを貼る女のように、黒沢清印の「赤い女」の水死体が画面に進入すると、一気に緊張感が高まり、黒沢映画としての色彩を帯び始める。凝った動線の贅沢な長回しも見せてもらえるし、いつも通りの背後に佇む名もなき人物たちの不穏さは、本作では尾行する憲兵がどこかにいるという物語上の必然性により増幅されている。インタビューを読むと、スタッフも黒沢映画を研究して好みを分かっていたらしく、それが随所の作家的刻印として表れているのかもしれない。普段の黒沢作品と比べると、空間自体が主役といったシーンよりも、ダイアローグを見せることに焦点が合わせられたシーンが多く、常に物語が前に進んでいく脚本もあって、ファン以外にとってもかなり見やすい作品に仕上がっている。偶にはこういうウェルメイドな黒沢作品も良いな。
親しくしていたはずの人物が、ある日境界線(本作では満洲に向かう国境)を超えた瞬間に今までとは全く違う人物に変質してしまうという形で表現されるコミュニケーション不全というテーマは本作でも変わらず。映画内の時間としては一瞬のうちの転調の後、全く違った男たちの姿が見えてくる。その大きな体をヌッと動かして迫る東出昌大の怪物的な形貌が実に魅力的。感情の回路が遮断されたような語り口と温度のない瞳を見ていると、ヒールとしてのパーソナリティを持った個別の人間というよりも、もっと抽象的な、ある時代ある地域の精神的風土の空虚な入れ物のように見えてくる彼が個人的にはベストアクト。
溝口というワードが出される食卓で、顔の右半分が漆黒の闇に包まれるライティングにより、ストレートに二面性を露わにする高橋一生にもギョッとさせられる。
純朴そうな青年だった甥の文雄の姿も一変しており、決定的な何かを見てしまったことを告白する。この時、「復讐 運命の訪問者」「Seventh Code」がそうであったように、二人の人間が真正面からぶつかり合う瞬間に羽毛が舞い散る。
山中貞雄のフィルム「河内山宗俊」も挿入される本作ではいつも以上に映画への思い入れが正面から示されているように思う。「CURE」のメスメルの記録映像のように、本作でも怨念が刻み付けられた異世界の表象としてのフィルムが登場するが、今回のそれに映し出されているものは、現実世界でも確かに起こった出来事としての凄まじい強度を持っている。自主制作映画で金庫を開けようとした挙動を自ら反復していく蒼井優の姿が、フィルムには運命が映ることを教える。そして、同時にフィルムは世界を変える道具にもなるという黒沢の心意気。自主映画の中でもやっぱり白いカーテンが揺れている。
蒼井に満洲での経験を打ち明けるシーンでの、長回しの中で高揚していく(これも溝口の教えではないか)高橋の圧倒的な台詞回しに痺れる。黒沢映画において、陰に陽に世界に横溢している禍々しいものに、やはり本作の主人公も触れてしまったことが明らかにされる。しかし本作のそれは抽象的で曖昧な何かではなく厳然たる史実なのであった。国家などというものに信頼を置いているはずもない黒沢だが、本作の主人公ははっきりとコスモポリタンだと宣言するに到る。
夫婦の演技合戦はやはり見事で、幾度かはっきりと不気味な面を晒す蒼井優に対して、時に感情を表出してもある一定のラインは絶対に保っている高橋一生が物語上勝利するのは必然だろうか。クラシカルなテンポ、声色の掛け合いも段々心地よくなってくる。インタビューによれば、蒼井優に参考にさせたのは田中絹代らしい。なるほどなあ。(溝口というワードはここにも繋がっているのか?)
大義のために私的な生活の全てを捨てられる男と、度肝を抜くような残酷な判断と行動力が結局は私的な関係の維持に向けられている女という描き方には議論の余地があるかもしれないが、まあ時代物故の制約もあるだろう。
本作の主役も黒沢的な空間の廃屋へと導かれ、ここから結局男と女の世界の果てへの逃避行が始まるのかと思ったら...。
捕らえられた蒼井優が「赤い服」を着ていることや、運命を導くフィルムとしての自主映画の結末が彼女の死であることによって惹起される不穏さは、どんでん返しに「お見事!」と叫ぶ蒼井優のための前フリだったようだ。このシーンの彼女の演出は、ここぞというところでリアリティを飛び越えてやろうとする瞬間だった。蒼井がもはや何も映らなくなった真っ白なスクリーンの前に立つ時、自主映画の主人公として眩いばかりのクローズアップで観客に感嘆の声を上げさせたはずの彼女は、この瞬間に大きな物語からも弾き出され、三桁の番号が割り振られた名もなき一人へと落とされてしまったのかもしれない。
「回路」のラストを思わせるような最後の登場シーンで霧の中に消えていく高橋にとって、その決断は愛故だったのか、そして史実と同じ年の終戦に到る因果経過は捻じ曲げられたのか、それらは観客には知る由もないが、ともすれば歴史の不正義を書き換える主人公の振る舞いとして単純化されかねない高橋の所行については、「CURE」のワンシーンのように揺れるテーブルから始まる現世に顕現した地獄と、劇中で堂々と名前を出される溝口の「雨月物語」「山椒大夫」あるいは「お遊さま」のような水辺と女の悲劇的な関係を見せることで、彼が大義のために犠牲にしたものもまた露わになっているのだった。
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