ナガエ

友達やめた。のナガエのネタバレレビュー・内容・結末

友達やめた。(2020年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

思ってたより全然面白くて、ちょっとビックリだった。

というかそもそも「思ってたこと」がほとんどなかったというのもある。僕は普段から映画を観る前に、事前情報をなるべく調べないようにしている。この映画も、映画が始まる直前まで、フィクション(物語)だと思ってたくらいだ。障害を持った人を主人公に据えたフィクションなんだろうな、と。

だから、ドキュメンタリーだと分かって、まずそこから驚いた。

観ながら、しばらくの間は、障害者(※差別的な意図はない、と明言した上でこの表記を使います。僕は、「身体的・精神的な病名がつく診断を受けた人」という意味で使います)の日常を描くものなんだろうなぁ、と思っていた。まあ、実際に、最後までそういう映画ではある。でも途中から、なるほどそうじゃないのか、と思うようになった。

これは、障害者かどうかに関係なく、社会に生きていく上でのコミュニケーションの問題を扱った映画だ。

最初に「おっ!」と感じたのは、

【私たちはマイノリティ同士で、分かり合えると思ってた。
でもそれは間違いだった】

という、監督の言葉からだった。

僕は、この”気づき”には2つの意味があると思う。

1つ目は、障害者ではない自分が、障害者を見る時の視点に関わる。つまり、「障害者」という、一つの大きな単体として捉えがちだよなぁ、ということだ。僕はなるべく、意識的にそうではない捉え方がしたいと思っているつもりだ。障害者だろうがそうじゃなかろうが、個人は個人であって、みんな違うのだ、と。でも、うっかりそういう「障害者という単体」として捉えてしまっているような時もあるよなぁ、と思う。

そしてもう1つは、「障害者自身が、障害者自身との分かり合えなさを発露する」ということに触れる機会がなかったなぁ、と思わされたことだ。そもそもこれは、もっと広くいえば、僕自身が「障害者」と関わる機会がない、ということでもある。

映画を観ながら、色々考えることがあった。例えば、この映画の監督は、生まれつき耳が聞こえないという。でも、喋るのは割と普通に出来ている。耳が聞こえない状態で、どうやって喋り言葉を覚えるんだろうなぁ、と思った。それは、音声を一切耳にせずに英語を喋れるようになる、みたいなことじゃないか?それ、凄いな、と思ったのだ。他にも、聴覚障害者は電話が出来ないので、聴覚障害者がパソコンで文章を打ち込み、それを電話で先方に伝える「電話リレーサービス」というのがあるようだ。確かに、考えてみれば必要なサービスだと思えるけど、正直、そういうサービスが存在するなんて知りもしなかった。

そんな風に、障害者のことをまったく知らないわけだから、「障害者同士の分かり合えなさ」みたいなものを知っていなくても当然といえば当然ではあるが、それでもなんか、「そういうことも知らないままだったんだなぁ」と思わされた。これは、監督が舞台挨拶で言っていたのと同じように、ポジティブな言葉だ。監督は、この映画のタイトルである「友達やめた」というのは、ポジティブな意味だ、と言っていた。それは、映画を観るとよく実感できる。これは、「まあちゃん」というアスペルガーの女性を追いかけるドキュメンタリーであると同時に、監督自身の内面を掘り下げるドキュメンタリーでもあるのだけど、その話は後でしよう。

監督がポジティブに「友達やめた」という言葉を使うように、僕も「知らないままだった」ということをポジティブな意味で使っている。生きていく中で、難しいなと思うことはたくさんあるけど、「自分が何を知らないかを知ること」ほど困難なこともない。そういう気付きが得られたことは良かった。

1つ目の「障害者を単体として見る」という話に戻ろう。僕は、意識しているつもりでもうっかり単体として見てしまうこともある、と書いたが、同じような感覚は、彼女たちの中にもある。彼女たちが「優生思想」について語る場面は、印象的だった。

監督は、杉田水脈議員の「子供を作らない人は生産性がない」という発言に反対する会合に呼ばれ出席した。そこで、「優生思想」に関する発言が出た。その後、まあちゃんにその話を振ると、

【優生思想は私も持ってるって思うことがあるから怖いなって】

と発言していた。その後、「そういう考えが出てきたらどうするか?」という話にすぐ移ってしまったので、まあちゃんの言う「優生思想」がどういうものなのか、具体的には描かれなかった。また同じく著者も、「自分の中にも優生思想のような考えがある」という主張をしていた。

この発言をどう捉えるか、僕はちょっと考えたのだけど、僕はこういう解釈をした。それは、僕自身が時々考えることでもある。それは、「自分に出来ないことがあることへの申し訳無さ」ではないかと思う。

「優生思想」が世の中的にどう定義されてるか知らないけど、「優生思想ではない」考え方を挙げるとすると、「平等」ということになるだろう。つまり、どんな人であっても差をつけずに公平に接する、ということだ。これは、理想的にはもちろん正解だ。しかし、得手不得手や性格、能力、価値観など、個人個人の差異によって、出来ることには限界がある。例えば、「誰かに何かを頼まれたら、それを進んで引き受けてあげるのが平等だ」と考えている人がいるとして、でも周りには、めっちゃ頼んでくる人もいればあんまり頼んでこない人もいる。めっちゃ頼んでくる人の頼みもすべて引き受けることが「平等」だと考えているとすれば、それはしんどいだろう。

でも、そう考えてしまうタイプの人もいる。そして、障害者であるが故に「平等」に過敏であり、過敏でありすぎるが故に「自分は平等に振る舞えていない」という実感に繋がってしまうのではないか、と思う。

そうなると、「私は平等に振る舞えていない。それはつまり、優生思想を持っているということでは?」という発想に行き着いてしまうんじゃないか、と思う。

僕は、結構こういうことを考える。僕は理想的には、なるべく他人に対して「平等」でいたいと思うのだけど、相手が障害者かどうかに関係なく(というか、先述の通り、障害者と関わることは日常の中でほぼない)、「平等」に振る舞えていないなぁ、と思うことは結構ある。で、「平等」に振る舞えていない理由は色々あるはずなのに、その理由が「差別的な感覚を持っているということなんじゃないか?」という部分に収束させてしまうことがある。

彼女たちも、似たような思考から「優生思想を持っている」という発言に繋がっているのではないか、と思う。分からないけど。

まあそんなわけで、映画の冒頭からしばらくの間はこんな風に、「障害者」というものが映画全体の中心軸にあって進んでいる感じだった。

しかし、徐々に別の中心軸が見えるようになってくる。はっきりとそれが見えたのは、「お菓子事件」の場面だ。詳述はしないが、この「お菓子事件」、二人の間ではなかなか沸点の高まった瞬間だった。完成した映画をまあちゃんに観てもらっているが、この「お菓子事件」のシーンだけは未だに観られない、という。まあちゃんにとってはかなり苦しい記憶で、トラウマ的になっているからだ。それを受けて監督は舞台挨拶で、「これからは、まあちゃんにトラウマを残さないように喧嘩をすることが課題です」という発言をしていた。

さてこの「お菓子事件」が一体何を描像しているかというと、「個々人の常識は違う」ということだ。そしてこれこそが、この映画の真のテーマであると僕は思うし、「障害者」というものから独立した、普遍的なものを伝えている作品だと思う。「個々人の常識は違う」ということを描き出すのに、確かに「障害者」という部分は非常に役に立っているが、しかしあくまでも「障害者」というのは舞台装置みたいなもので、舞台の中心には「個々人の常識は違う」というテーマがドーンと居座っている。

僕は障害者ではないが、子供の頃から本当に、周囲の人の言っていることにあまり賛同できなかった。それで結構生きるのが大変だった。親とか先生とか同級生が“当たり前”みたいな顔をして言ってることが、僕には理解不能だったという記憶がある。具体的に覚えていることはほとんどないけど、例えば、クラスメートが何かで爆笑している時、僕はどうしてみんなが笑っているのか理解できないことの方が多かった。だからいつしか、「こういう場面ではみんな笑うんだろうな」という雰囲気を察知して笑う、という能力を身につけるようになる。大人になって、それは止めようと思って直そうとしたけど、しばらく時間が掛かった。

ホントに子供の頃は、「何言ってんだコイツら」みたいにずっと思ってたはずで、そういう経験を踏まえて僕は、「一人一人常識は違う」「相手の言動に違和感を覚えても、まず相手の理屈を理解しようとする」という振る舞いを無意識的にするようになった。

でも社会に生きていると、本当に、「自分が考えているのと同じように周りの人も考えているだろう」という思考の人が多くてうんざりすることが多い。これは本当に、障害者かどうかなんてことはまったく関係ないし、むしろ、障害者ではない方がよりそういう傾向が強くなる気がする。SNSで自分と気が合う人を見つけやすい時代だからこそ、余計に、自分と考え方が合う人ばかりで自分の周りを固めがちになってしまうし、そうなればなるほど余計、「自分とは違う考え方の他人がいる」ということに意識が向かなくなってしまう。

そういうリアルな現状に、監督は向き合うことになる。

監督が向き合う相手は、アスペルガーのまあちゃんだ。そもそもが、アスペルガーではない人以上に、その行動原理を理解しにくい。監督はまあちゃんと知り合ってからしばらくの間、何かあってもずっと我慢をしていた。文章にすると些細なことに感じられるかもしれないけど、「愛情表現のつもりで頭を叩く」とか「人の飲み物を勝手に飲む」みたいな行動があった時、監督は「それは嫌だ」と言わずにきた。

何故なら、まあちゃんがアスペルガーだからだ。

【私はアスペ脳のことが分からないから、こういうことを言って困らせるんじゃないかと悩む】

また、自身が障害者だからという理由もある。ある場面でまあちゃんが、「ちゃんとしてよって言われたんだけど、じゃあ、耳の聞こえない人に『聞こえるようになって!』って言う?って反論した」というような話をしていた。なるほど、と思う。確かに、アスペルガーというのは脳の問題で、視覚的に分からない。だからつい、性格や努力不足の問題だと混同してしまう。でも実際には脳の問題なのだから、耳の聞けない人に「聞こえるようになって」と言うのがおかしいのと同じように、アスペルガーの人に「ちゃんと出来るようになって」というのもおかしいのだ。その話を受けて、監督自身も、まあちゃんの感覚が理解出来てしまうし、だから余計に言いにくくなってしまう。

けど、まあちゃんの撮影を続ける中でこんな風に感じる。

【まあちゃんのことを純粋に観られなくなっている。このままだと私は、まあちゃんではなくアスペルガーを撮ってることになってしまう。】

「アスペルガーだからしょうがない」と思っていれば、まあちゃんという個人が消えてしまう。そうではなくて、「アスペルガーであることもまあちゃんの一部」と捉えるようにすることで、監督は、この映画のタイトルである「友達やめる」という感覚に行き着くことになるのだ。

この映画では、アスペルガーという障害を持っているからこその難しさを含めて、お互いの常識をすり合わせていくことの困難さを描いているが、しかしその困難さは、障害者じゃなかったら存在しない、ということにはならない。むしろ、より難しくなるだろう。

障害とはちょっと違う話だが、アメリカは元々人種が多様だから、「他人の考えは自分と違う」ということが社会の基本合意になっている、という話を聞いたことがある。一方の日本の場合、ほぼ単一民族であり、さらに島国だから、「他人の考えは自分と同じ」という感覚が根強いという。こういう無意識レベルの感覚というのはなかなか変えられるものじゃなくて、やっぱり日本人同士が会った場合は、「そこまで自分の感覚とズレてないだろう」という意識を持ってしまうんじゃないかと思う。僕は子供の頃から周囲とのズレを感じまくってたんで、正直そういう感覚はまったくないのだけど、周囲とのズレを感じずに大人になれた人ほど余計に、同じ感覚を期待するんじゃないかと思う。

だから日本人同士の場合、「同じはずなのに!」という根底の感覚があるから、余計にややこしいといえる。この映画では、マイノリティ同士の「同じはずなのに!」が描かれ、ドキュメンタリーとして面白く仕上がっているが、僕らの日常としてはむしろ、マジョリティ同士の「同じはずなのに!」が日々展開されているということになるだろう。

詳述はしないが、「お菓子事件」以降、まあちゃんも監督もそれまでとはちょっと違ったギアを入れてるみたいなやり取りの応酬があった興味深い。「自分から弱者になってる」という指摘についても、考えさせられるなと思う。

障害者の物語、と捉えているとちょっと狭くなってしまうだろう。「個々人の常識は違う」という、普遍的で、ある意味で当たり前のことなんだけど、日常の中でうっかり忘れがちな真理について、マイノリティの二人が全力でぶつかることで扉を開いていくドキュメンタリーです。
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