ヤマダタケシ

もう終わりにしよう。のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

もう終わりにしよう。(2020年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

2020年9月18日 Netflixで
・恋人の家に行く話、恋人の家族との食卓がグロテスク。ここら辺から『イレイザー・ヘッド』を何となく連想した。
・考察サイトみたいなのチラッと見たらどこも共通してこれはジェイクって用務員の妄想である、って書いてあって、そこには全く気付けなかったなぁと思った。
・基本的にルーシーという女性の視点から今作は語られていて、まぁ今作、物語がジェイクの妄想だとするなら、画面に登場する全ての人物がジェイクを構成するものなんだろうけど、個人的にはかなりルーシーという女性の、恋人という他者との距離感の話で、その距離感が次第にあいまいになっていくもののように見えた。
・恐らく恋人やその家族の記憶、経験が自分のもののように感じられるのは、それが全て最終的にはジェイクという一人の人物の中に落ち着くからかもしれないが、それにしても前半から中盤にかけて描かれる恋人への言葉にしづらい嫌悪感やグロテスクに描かれるその家族の描写は、ルーシーから見た他者への違和感だと感じたし、それが次第に彼女の中に自分との境界線があいまいになるくらいに入り込んでくる話のように思った。
・食卓のシーンは都会的なインテリ感と田舎的な粗野な笑いみたいなのが、お互いの嫌な部分を目立たせるような感じでなかなかの地獄だった

2020年10月14日 Netflixで
【女性版の『イレイザーヘッド』のような感じがした】
 最初に観た時は〝彼氏の家族に会いに行く女性の物語〟として主にこの作品を観ていた。その視点で観た今作は
・具体的には言葉に出来ない彼氏への違和感
・他者である事が強調されグロテスクに見える彼氏の家族
 の二点が強く感じられ、特に二つ目の点をとても意識させられた。
 それは単純に他者から感じるグロテスクさ、コミュニケーションの上手く行かなさだけでは無く、その他者と自分の境界が次第に曖昧になっていくことの怖さとして見えた。
 彼氏が話す彼女に対する紹介やエピソードは二転三転し、その場の雰囲気を壊すまいとそれにうなずく彼女は次第に自分が何者なのかが分からなくなってくる。はじめて来た家にも関わらずそこに飾られた写真は自分の幼少期のものであったり、地下室に飾られた絵は自分が書いたと思い込んでいたものだったり。
 それに限らず、その家族の時間の中に居る事によって、その他者が自分を取り込もうとし、また自分もだんだんそこに混じって行ってしまう恐怖。
 題材は違うが、恋人の家族、自分の赤ん坊など、自分と重なる部分がある他者の存在を、その温もりを感じてしまう距離感に居る事の不気味さを描いているという点で、個人的には『イレイザーヘッド』を連想しながら今作を観た。
【もう全てが絶望しか無い事の確認】
 ただ二回目を観た時は今作の構造にある〝全てが最終的に死ぬ用務員の男の妄想だった〟という視点で今作を観た。
 今作の冒頭、モノローグが語る。「現実の世界よりも脳内で考えている事の方がそこにウソがつけず、より現実的である」。それに従って今作を観れば、そこで起こる事の全てが男の妄想だという風に観ることができる。
その視点で今作を観ると〝恋人を家族に紹介する日〟というとても幸せなシュチュエーションの妄想であるにも関わらず、そこにことごとくあきらめやネガティブな言葉が入るため、そこにあるのがより深い妄想であるという事が分かる。
【男の妄想であるが、その語り手は想い人】
 今作少し複雑に感じるのは、男の妄想であるにも関わらずその語り手がジェシーという女性だからであり、かつ彼女は彼女でひとつの意思を持っているように見えるからである。
 後半、実際の姿である用務員と対峙した彼女が語る「バーに行くたびにこっちを見ていたキモい男=用務員」というセリフから、恐らく彼女は男がずっと一方的に想って来た相手であることが分かる。
 そして、今作は用務員の妄想の中の肉体であるジェイクとジェシーの旅路を描きながら、主な語り手はジェシーにし、彼女がその妄想に対する違和感をモノローグで言葉にしていく事によって自我を手にしていく過程が描かれているように思えた。
 つまり、それはジェイクを中心に添えた用務員の妄想を客観視するものである。
 だが、同時にその客観視しているジェシー自体も用務員の妄想の中の一部ではあるのだ。
 その視点からすると今作の用務員の妄想に入り込んだ、もう誤魔化しようのできない絶望は大きい。
文学やアートの言葉を持ちそこに憧れながら何者にもなれず、他者の目線に曝される事を恐れコンプレックスが育まれ、誰からも見向きもされない人物だと思っている。やがてたどり着くのは自分の両親がそうだったように老いの果ての醜い姿と死であり、そこから逃れることは出来ない。
 高校のゴミ箱に捨てられたカップの数などから、なんとなくこの妄想のシュチュエーションが彼の中で何度も擦り倒されたものだというのが分かる。
 今彼が暮らす小さな街と実家、そして職場である高校とよく立ち寄るアイス屋。彼を構成する狭い世界の中で育んだ唯一の希望の物語が恐らくジェシーとの事だったのだと思う。
 用務員の働く一日のシーンにカットインされる旅路のシーンは、その妄想を用務員が誰からも見向きもされない仕事中に延々と繰り返したものであることを示す。
 そしてその妄想の中ですらコンプレックスや恐怖は侵食し始め、その中の唯一の希望であるジェシーが自我を持ちジェイクとの距離に違和感や嫌悪感を感じ始めた事は、彼自身が彼の妄想を究極的に客観視した事であり、それは彼の妄想の終わりであり、もうこの世には絶望しか無いという事に気づいてしまった事である。
 自分の幼少期や才能を見いだせなかった絵画の話をする両親に対する怒りは彼のプライドの高さと、同時にそれゆえのコンプレックスをうかがわせる。
 彼の唯一の生きる手段は妄想でありながら、その妄想にも現実が入り込み没頭できない。最後のミュージカルでの「わたしは彼女を自分のものにするのだ」という歌も、そこへの拍手も果たして彼にとって自分自身信じられる言葉だったのかが疑問である。
・妄想の中ですらコンプレックスを感じてしまうという点で花沢健吾の『ルサンチマン』 
 を連想したりした
・用務員の話としては絶望の話だが、ある意味、感覚としてはその妄想の中のひとつのコマであったジェシーがそこからエスケープしていくようにも見える