耶馬英彦

おかえり ただいまの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

おかえり ただいま(2020年製作の映画)
4.0
 死刑の議論は難しい。
 日本の死刑は絞首刑だけだが、外国では電気椅子や銃殺、ギロチンなどがある。先進国では残虐刑が禁止されている国が多く日本もそのひとつだが、イスラム圏の国ではたとえば石打ちの刑などが現在でも行なわれている。下半身を土に埋めて、こぶし大の石を投げつけるという刑だ。死ぬまで投げつけるので、残酷さは相当だと思う。
 仮に日本で石打ちの刑があるとして、被害者の家族は石を投げつけられるだろうか。娘を理不尽に殺された母親でも、他人を傷つけることには禁忌の心理が働くから、相手が死ぬまで石を投げつけるのは難しいだろう。では絞首刑の床を抜くスイッチを押せるだろうか。これも普通の人には難しい。
 死刑は人を殺すことだ。他人の死刑を望むが人殺しはしたくないというのは、沢山の人の本音だろうが、ある意味では虫のいい話である。日本では死刑囚は刑務官が殺す訳だから、人殺しを他人任せにしている訳だ。これは死刑を望む被害者家族だけでなく裁判官にも検事にも言えることで、人を死刑にするなら自分で執行するくらいの覚悟があって然るべきなのかもしれない。
 本作品は簡単に言えば、清く正しく生きてきた女性が見ず知らずの三人組の強盗に殺される話である。母娘ふたりで生きてきた母親は、ひとりを除いて死刑にならなかった判決を不服として死刑を求める署名活動を行ない、30万人近くの署名を集めている。しかし死刑の嘆願に署名した人は自分の手で死刑囚を殺す覚悟があるのだろうか。
 母親が死刑を求めるのは無残に殺された娘の復讐のためだけではなく、無慈悲で残虐そのものの犯人たちを再び世に出したくない気持ちもあるだろう。その意味では死刑囚に自ら手を下してその死を確認すれば、二度と外の世界に戻ってくることがないという安心があるかもしれない。能動的に殺すのは誰も気が進まないから、水だけを与えて餓死するのを待つという手もある。人権団体から死刑囚にも人権はあると批判されるかもしれないが、一方的に生命を奪われた被害者の人権にはどのように落とし前をつければいいのだろうか。
 被害者である利恵さんの死は理不尽すぎるし、母親である富美子さんがこの事件を風化させたくないという気持ちも判る。戦争の歴史を風化させてはいけないのと同じだ。再び戦争が起きないために努力するのと同じように、利恵さんのような被害者を二度と出さないように努力しなければならない。富美子さんの講演はそれに役立っているのだろうか。

 映画の中で少しだけ触れられているが、加害者は社会から追い込まれて加害者となったのである。生れた時は赤ん坊だった訳で、その頃から犯罪者だったのではない。ボーヴォワールの言い方を真似れば、人は犯罪者に生まれるのではなく犯罪者になるのだ。犯罪者が育たない社会を作らなければ、第二、第三の利恵さんが殺されるだろう。
 人間に優劣をつけ、優れた者が劣った者の人権を蹂躙するのが今の社会だ。優劣の基準はその時その時の社会のパラダイムである。日本の新しい総理大臣は自助、共助、公助などと言って、自己責任論を徹底しようとしているから、自助が出来ない人間は今後も追い詰められ続けるだろう。犯罪者の誕生である。そして第二、第三の利恵さんが殺される下地となる。そうしないためには他人との優劣を争うことが生き甲斐というこの社会の人間のありようそのものを変える必要がある。オリンピックで金メダルを目指す強者を讃えて応援する反対側には、差別されて人権を蹂躙される弱者がいるのだ。
 沢山のテーマが錯綜した複雑で難解な作品である。考えるべきことは山ほどある。あのとき救えなかった子供が大人になって強盗殺人をしたと考えれば、我々の身の回りにも今すぐ助けないといけない子供がいるかもしれない。そこで手を差し伸べるかどうかが、第二、第三の寿恵さんが殺されるのを防ぐことにつながる気がする。
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