ナガエ

おかえり ただいまのナガエのレビュー・感想・評価

おかえり ただいま(2020年製作の映画)
-
個人的な感想では、ちょっとこれは、失敗してるんじゃないかなぁ、という感じがしてしまった。

後半の、ドキュメンタリーの部分は良かったと思う。そして、前半にドラマをくっつけるってアイデアそのものを否定したいわけでもない。

でも、前半にドラマをくっつけるなら、もうちょっとちゃんと撮ってあげないと、可愛そうだなぁ、と思ってしまった。

もちろん、予算の都合など色々あるんだろうけど、ドラマ部分が全体的にチープに見えてしまった。役者の演技に対してあれこれ言えるほど演技というものに詳しくないからあんまり言わないけど、演技的な部分にも違和感はあった。でもそれは、役者の力量という面はもちろんあるだろうけど、演出の不備という側面もあるように思う。カット割りとか、セットの感じとか、全体的に「テレビで見かける再現ドラマ」感があって、これを「映画」として受け取っていいんだろうか、という感覚は、ドラマパートが終わるところまでずっとモヤモヤとしていた。

僕が観に行った回は、舞台挨拶もあり、そこでこういう構成にした意図みたいなものも話していた。事件を風化させたくないという母親の想いや、「闘う母」という構図だけにはしたくなかったという制作側の意図があったようで、それは理解できる。理解できるし、前述の通り、前半にドラマをくっつけるというアイデアそのものを否定したいのではない。ただ、もうちょいちゃんと撮っておかないと成り立たないんじゃないかなぁ、と思ったのだ。

その点がどうしても僕の中では引っかかっていて、なかなかこのドキュメンタリーのパートが始まるまで、なんとも言えないモヤモヤを抱えながら観ることになった。被害者となってしまった女性の、亡くなるまでの人生を描き出すことで、事件の風化を防ぎ、母親が訴えていた「厳罰化」という主張も理解しやすくなる、という構成は良いと思うので、もうちょっとちゃんと撮ってほしかった。もったいないなぁ、と思ってしまった。

内容に入ろうと思います。
この映画で描かれているのは、2007年に名古屋で発生した、通称「名古屋闇サイト殺人事件」。ネット上のアングラサイトで仲間を募り、ただ金を奪うためだけに女性を拉致、殺害するという残虐な事件だ。
前半のドラマパートでは、被害者となった磯谷利恵さんと、その母・富美子さんを中心に、利恵さんが亡くなるまでの家族や恋人との関わりを描き出していく。
そして後半のドキュメンタリーパートでは、母・富美子さんが「極刑」を望む活動を行う姿が描かれる。日本の司法制度では、過去の判例から、強盗殺人は2人以上殺害で死刑、1人だと無期懲役となっている。しかし富美子さんは、人数で判断しないでほしい、事件の残虐さからすれば死刑で当然、として署名活動などを始める。
というような話です。

正直、ドラマパートについては特段書くことはないので、ドキュメンタリーパートに絞って書こうと思います。

まず印象的なのは、富美子さんのこの言葉。

【この事件のこと、私は忘れてしまいたいけど、みんなには覚えていてほしい】

これだけ切り取ると、「???」となるかもしれないので、補足の引用もしておこう。

【時々、犯人に対する憎しみで生きている、みたいに思われるんですけど、犯人について考えるより、娘について考えている方が楽しいじゃないですか】

富美子さんが、「事件」のことは忘れたいけど、「娘」のことを忘れたいわけではない。事件とは関係のない娘のことを考えることで、富美子さんの中では「娘」は風化しない。しかし一般の人は、「娘」のことを知らない。だから、「事件」が忘れ去られてしまえば、同時に、「娘」のこともいない存在のようになってしまう。だから、みんなには「事件」のことを覚えていてほしい。

という趣旨の言葉だ。非常に印象的な言葉で、「遺族」としての自分の立ち位置を明確にするかのような言葉だと感じた。

実際、富美子さんは、長い裁判が終わった後、仲間たちと笑顔で話す姿が多く映し出されていた。もちろん、「事件」のことを「忘れたい」と言っているぐらいだから、忘れられていないし、それは当然だが、しかし一方で、人生をきちんと生きていこう、楽しもうという姿も垣間見えた。それは、とても良い姿に見えた。

この事件は、3人の男が首謀者で、内1人が死刑を恐れて自首、その後残りの2人も逮捕される、という経緯で発覚した。裁判では、自首した1人は、自首したことが考慮されて無期懲役、残る2人は死刑となったが、死刑となった2人は控訴した。しかし、控訴した2人の内1人は控訴をすぐに自ら取り下げ死刑が確定。もう1人については高等裁判所で無期懲役の判決が出て、最高裁でも同じように確定した。

法律解釈や判例というのは、様々なことが考慮されて作り上げられてきたものだろうから、簡単にあれこれ言うことは難しいが、しかし、一審で死刑だったが二審で無期懲役に変わった理由として、「極刑を下すほどの事件ではない」という主旨(正確な表現は忘れたけど)の理由が述べられていたことには違和感を覚えた。確かにこんなことを言われたら、【加害者目線ではなく、被害者目線で刑を判断してほしい】と言いたくもなるだろう。

この映画に限らず、司法というものへの違和感を感じてしまうような本・映画に触れる機会はそれなりにあって、モヤモヤすることが多い。もちろん、日本は先進国でも稀な「死刑容認国」であり、それはそれで国際的に議論がなされるものだと思う。僕自身も、死刑を廃止し、仮釈放なしの終身刑を導入すればいいのではないか、と個人的には思うが、まあそれはこの映画で描かれていることとはあまり関係ない。この映画では、「極刑が望ましいかどうか」が議論されているのであって、その極刑が「死刑」であるか、あるいは「仮釈放なしの終身刑」であるかは問題ではないように、思う。

もちろん、「死をもって罪を償え」という感覚はあるかもしれないし、であれば「極刑=死刑」であるべきなのかもしれないけど。

法治国家では、「暴力行為」(警察力の行使や死刑など)を国だけが唯一正当化して行うことが出来る。だからこそ、そこには公平性や納得感が必要だと思う。これまでの慣例や常識に従うことで、現代性とズレが生まれてきてしまっているのならば、少しずつでも修正が必要だろう、と思う。
ナガエ

ナガエ