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アイダよ、何処へ?のtsuraのレビュー・感想・評価

アイダよ、何処へ?(2020年製作の映画)
3.8
アイダは何処へ?

彼女の姿を探している人達。

しかし彼女は自分の家族を探すことで精一杯だ。


スレブレニツァの惨劇はなんとなく記憶にあった。
ただ、それが何なのか当時の自分には全く見当付かない彼の地の話であった。

時を経て大人になり。今年の夏頃だろうか。私はある日、テレビでこの惨劇の特集が放送されているのを目にした。

朧げな記憶がまるで失ったパズルの一部であったようで、テレビ越しに映し出された映像の連続と合致していきパズルが完成されていく…矢張りあの頃目にしたのはこの惨劇の光景なのだった。(その映像がリアルタイムであったかは不明だが)

自分の中で引っかかっていたものが外れたのと同時に新しく書き換えられていく情報にある意味、取り憑かれてしまった。 

しかしそもそも何故日本人は、いやこの世界はこの光景に目を瞑っていられたのだろうか。

特集では被害に遭われた女性がインタビューに真摯に応えていた。
残酷なその証。

放送されているテレビから流れてきたのはただの情報ではなく、かつて生きた者達の記録だった。

無慈悲な銃弾の雨に、まるでスイッチを切ったかのように倒れていく人、女性を性処理の道具のよう使い捨てたり。壮絶な語りから見えてくる真実。

これが人の為すことなのかと同時に同じ人として感じる怒りと哀しみ。


映画はそこを切り取っているわけでは無いが、そんなボスニア東部の町を侵攻した時に逃げ惑った、恐らくは描かれてもおかしく無いだろう悲しみの物語でピリオドを打つ住人達の死の行軍を描いている。

死の行軍、と言えば聞こえは良いが、ただ、連行されて行く、それのみだ。
そこに行きつく先(未来)などない。

アイダは国連サイドで通訳として従事してる事で、身柄を保証されているが彼女以外は夫だろうと子供だろうと、救済の余地がそこにはなく、彼女は何とかして家族を助ける術を見つけるために奔走する。

しかしながら世界は目を背けた。

国連の撤退に合わせて、忍び寄るセルビアの魔の手…

実の所、ここまで列挙したもの全て強烈なバイアスに掛かっている。(と思う。)つまりこの作品は中立的にはあまりに描いていない(それが正しいかは判断が分かれるだろう)
セルビア国内でも未だにこの惨劇の中心人物ムラディッチ将軍を英雄視する向きがあるらしいが、彼本人の描き込みこそシンプルだが、彼から発信されただろうその行為の数々が克明に描写がされている。

私達、第三者(この立場を是認したく無いが)の立場からではなにがこの無慈悲な虐殺に至ったのかという部分は、この作品だけではストーリーをあまり追えない。(そこを問う作品では無いが)

過去の凄惨な大虐殺と比肩出来たとしても、そこに圧倒的な正義と悪の関係が介入されていたとしても腑に落ちないところがある。(領有権と民族、宗教が混在した結果が原因なのだが)勿論、大前提として人を殺めるなど言語道断ではある。
ただ、両者を明と暗で描いてる割には怒りの矛先はそれだけでは無い事が物語の進行に連れてより顕在化するが故に、この作品の結末は当事者達でさえ、ただ立ち尽くすしか為す術がなく、それは自ずと私達も傍観の域を出れておらずそれはあまりにも切ない。一体この悲劇の"諸悪"の本質とは何なのか、そもそもセルビア側の兵士達でさえあの凶行に駆り立てたものとは何だったのだろうか。

疑問が表出すればするほどこの作品から滲んでくる色合いがどうしても薄れている様に見える。
つまりアイダだけの物語に語りを集約させず、双方の意見・歴史の側面、その多面的な真実の様相と対峙したくなってしまうのだ。
それがあまりに身勝手な言い分だというのは弁えて語っているが、"それ"を求めるならこの映画では補完できない事は明白だが、それでもアイダという女性を通して語られるこの物語が彼女だけの話では無いこと、この歴史的惨劇が何だったのか、それにもう一歩踏み込む業、或いは見せる勇気があっても決してそれは語るべき内容で決して蛇足では無かったと思う。

それでも現在も続く彼の地のカオスを象徴化しているラストは私達に何を投げ掛けているのだろうか。

そのどうしようも無いくらいの騒めきに触れてしまった私達はどうすればいいのだろうか?
そして、それは何処へ繋がっているのだろうか?
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