一八

マッドマックス:フュリオサの一八のレビュー・感想・評価

3.0
【何故マックスは荒野に去ったのか?】

ジョージミラー監督最新作。
カーアクションの絶対王者『怒りのデスロード』の主要人物の一人、フェリオサの若き姿を描いた前章譚。

『怒りのデスロード』は本当に大好きな作品。
あの映画は21世紀におけるカーアクションの礎として映画史に残ることは間違いない。
ただ、本作に関して正直に言えば、(今公開して大丈夫?)という不安しか感じなかった。
というのも、『マッドマックス』は世界が崩壊した未来で、古から語り継がれてきた神話を再生させる試みであり、約束の地への帰還を目指す筋書きの『怒りのデスロード』は、旧約聖書の出エジプト記に記されているヘブライ人のエジプト脱出計画"エクソダス"の再生だった。
そして本作はそれ以前、創世記に記されている約束の地カナンからエジプトに奴隷として連れ去られ、最終的に宰相の地位に就いたヨセフの神話の再生であり、本作のヴィランのディメンタス率いるバイカー集団によって緑の地から連れ去られ、イモータンジョーの砦で頭角を現していくフュリオサの姿はヨセフと酷似している。

問題なのは、ヨセフの物語は自分を売り飛ばした兄弟達との和解で終わるのに対して、フュリオサの行動原理は"緑の地から連れ去ったディメンタスに復讐し故郷に帰る"にあるという点だ(※ディメンタスは終盤でフュリオサのことを同族呼ばわりしている)
しかも本作の戦いの火種は土地そのものにあり、緑の地を支配している鉄馬の女たちは外来者からの侵入を許そうとはしなかった。
今、旧約聖書の舞台となった地で何が起きているのかを考えると、フュリオサの行動は間違っているとしか思えない。

何故『怒りのデスロード』で緑の地が荒れ果て、砦に戻る展開になったのか、これをよく理解しておく必要がある。
それだけじゃない、激しい戦いの果てに砦の支配者イモータンジョーを倒し、フュリオサが新しい統治者として昇っていくその下では、己を取り戻したマックスがフュリオサを見送りながら荒野にへと去っていった。
全てが消し去った世界にも関わらず、新たな約束の地を探して荒野に踏み出すマックスの姿こそ、『マッドマックス』が神話たらしめる最大のファクターだ。
だからこそ『怒りのデスロード』の主人公はフュリオサではなくマックスなのである。
本作にはこの"荒野に去る"要素がない。

もちろん、本作や『怒りのデスロード』がシオニズムの映画だと主張する気は全くないけど、今年のカンヌが例年以上に政治的な主張は避けるようにと告げ口する中で、その参加者が本作を絶賛しているのを見てると、(本当に大丈夫?)という気にしかならないです。
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