プリオ

マッドマックス:フュリオサのプリオのレビュー・感想・評価

4.5
【怒りのデス・ロードの感動が3倍増しになる素晴らしい前日譚】

前作「怒りのデス・ロード」は3日2晩の行って帰ってくるだけ話だったが、今作は15年に渡るフュリオサの超人的な生き様を描いた復讐劇になっている。

構成としては五つの章立てを成す神話、伝説、おとぎ話の類で、ヒストリーマンによって語られていく。そのためか物語展開や画面のタッチはややファンタジックで、前作のリアリスティックなロードムービーとは全く性質が異なるものになっている。

また前作より世界崩壊後の地獄感が色濃く、戦争映画としての側面が非常に強い。戦争というものがいかにして起こるのか、戦争がいかに成り立っているのか、戦争における駆け引きなど、戦争の構造を簡略的に理解できるような内容になっていた。

今作はそういった点を含め、前作「怒りのデス・ロード」とはテンポ感や規模感も大きく異なるわけだが、個人的にはとても楽しく見ることができたと思っている。

前作と同じようなものを作らなかったジョージ・ミラーの強気な姿勢は飼いたいし、アクションは相変わらず迫力満点だったし、シンプルなストーリーでここまで魅せてくれる監督のバイタリティには純粋に驚かされた。

総撮影日数240日。その内ロケが65%を占めた今作だが、丸一日かけて撮れるのが7〜9秒のショットが三つなど、ザラだったらしい。

それ故に、映画中盤の15分に渡るウォータンクが襲撃されるアクションシーンは圧巻で、目が離せない展開に終始ゾクゾクしっ放しだった。

この15分間も続くノンストップアクションは通称「行く当てのない密航者」と呼ぶものらしいが、個人的に映画全編を通しても最もブチ上がるシーンだった(ちなみに「怒りのデス・ロード」ではこのような一連のアクションが3つ程用意してあるので、本当に異様な映画だと思う)。

この「行く当てのない密航者」のシーンは前作の興奮を思い起こさせるアクションになってはいる。でもちゃんと新しい要素を盛り込んでくるあたりが評価できるポイントだろう。パラシュートで襲ってくるバイク集団、ボミーノッカーという狂気的な必殺奥義などは笑える程に最高だった。

また胸熱展開としては、フュリオサとジャックが互いにまだ心を開いてないのに関わらず共闘する部分が当たるだろう。この共通の目的のため協力する男女の姿は前作におけるフゥリオサとマックスに重なるところだが、それもあってか、ここでの興奮度はまさにマックスだった。フュリオサとジャックの目が合うシーンを何度も差し込んでくる辺りも、ちゃんと製作サイドが胸熱ポイントを把握していることが伺えるし、このシーンでジャックがフュリオサを女と認識するわけだが、それもなんか分からんけど最高だった。男だと思ったら女だった。それがなぜここまで興奮するのか正直分からないけど、まぁこれは完全に自分のフェチだろうなとも思う。

まぁ、そんな話は置いといて、この「行く当てのない密航者」のシーンでは、さらにもう一つ大きな注目ポイントがある。それは、アニャテイラージョイの声がここで初めて聞けるところだ。劇中ではアニャの魅力的な声はなかなか聞くことができない。だから焦らしに焦らされていた分、興奮も倍増したのだろう。「ボミーノッカー!」の雄叫びにはマジで全身が痺れました。

ちなみにアニャは「ラストナイトインソーホー」で魅力的な歌声を披露し話題になった。またジョージ・ミラーは「ラストナイトインソーホー」を見て、アニャに今作への出演を打診した経緯がある。

しかし今作でアニャが喋るシーンはほとんどないわけで、それは少し残念だったが、その代わりに光っていたのがアニャの目の演技だろう。正直この目の迫力に関しては昨今のハリウッド界においてアニャの右に出るものはいないと僕は思っている。彼女の特徴的な離れた大きな目。それが原因でいじめられた過去もあるみたいだが、個人的には限りなく魅力的に映る。そして今作ほど彼女の目が生きた映画もないだろう。

マッドマックスシリーズは会話ではなくアクション主体だし、目元に寄るカットも多いため、目での演技が要求される映画だと思う。今作は前作ほどセリフが少ないわけではないが、それでもフュリオサのセリフ量は極端に少ないものだ。会話シーンのほとんどは男たちの不毛な会話や嫌悪感溢れるものが中心。でもアニャは何も言わない。目にうっすら溜める涙で、怒り、悲しみ、そして意志を語るのだ。

正直、アニャファンの自分としては、今作は堪らない一作だった。こんなアニャの姿が見たかった。そしてそれにちゃんと応えてくれたアニャ。彼女の持つ「強い女」というパブリックイメージをフルに活用した映画とも言えるだろう。

これまでの作品でも、アニャは、
ドラマ「クイーンンズギャンビット」では男社会のなかで成り上がっていくチェスクイーン、
「ザメニュー」では狂った世界でサバイブするハンバーガー女、
「ラストナイトインソーホー」では女性を搾取する社会で揉まれる女、
を演じた。

いずれの役も共通しているのは、世界や社会の圧力に立ち向かう女性の強さを担っているところだろう。まぁ言ってしまえば同じような役が多いわけだが、でも似合ってしまうから文句もなにもない。アニャに強い女をやらせたらピカイチなのだ。そして、アクションもお手のものなのだ、、、

と思ってはいたんだが、実は今作を見て、僕はうっすらとある確信を抱いてしまったのだ。

そう、おそらくアニャはアクションが苦手だと。

これには明確な根拠はない。極めて直感的なものだ。でもアニャの体型や身体操作を見る限り、アクションができそうな匂いがしなかったのだ。

今作で披露したアクションもあまり体を張った感じは伝わってこなかった。生のアニャが暴れている感じはしなかった。うまく誤魔化しているようなそんな感じがしてしまった。そしておそらくそれは今作のトップシークレットなんだと思うが、アニャはアクションを自身で演じることがほぼなかったのではないかと僕は勝手に推察している。

その理由としては、アニャがアクションをやれたら、もっとアニャがアクションをしているのがわかるようなシーンがあってもよかったと思うからだ。

その大きな一因としては今作がAIやCGの類をかなり駆使して作っていることも関係しているとは思う。

革新的な映像技術はもはや本物か偽物かの区別は分からないレベルにはなってきていて、アクションにおいて怪我や手間のリスクも考慮すると、AIやCGに任せた方がいいのも理解できる。

でも、何故かなんとなくAI然りCGの映像ってそうだと分かってしまうところもあるし、それがリアリティの欠如ひいては映画鑑賞の熱を冷ます要素に個人的にはなってしまうのだ。

そしてそのせいで今作におけるアニャという人間のリアリティや彼女の織りなすアクションも薄まってしまったようにも思えてならないのだ。

また、アニャには比較して申し訳ないが、シャリーズ・セロンのフュリオサの方が芯からくる強さみたいなものがあったようにも感じた。それはシャリーズ・セロンの役者としてのキャリアから醸し出されるものなのか、さすがといったところなのか、力強さとその奥にある悲哀のようなものが上手く表現されていたように思えた。

でも逆にアニャには若さと勇ましさ、そして勢いはあったと思う。

そして、そう映っていることは、ある意味で正解だとも思える。

なぜなら今作はフュリオサの成長譚であり、彼女の成長過程にあたる映画だからだ。

だからアニャはアニャでいい感じに演じていたと思うし、セロン姉にはセロン姉の、アニャにはアニャのよさがあるよね、ということで、ここでアニャの話は締めたいと思う。


さて、今作はフェミニスト映画として話題だ。

僕は個人的に男と女を過剰に意識することが差別に繋がっていくと考えてるし、あまりそこんところは問題意識は持たずに、男対女ではなく人対人として捉え、お互いにこの世界のあるべき姿を検討していくことが大切なような気がしている。

また前提的にフェミニズムについてそこまで知識もないし、フェミニズムと言う言葉ですぐに括ることにも少々疑問を抱いてるので、いずれにせよあまり語れないわけだが、これだけは言えることがある。

それは、
強い女が好き。

そして、
女が男をぶっ飛ばす映画が好き、
ということだ。

そういう点で言うと、今作然り前作も、女性の強さが全面に出てるし、女が男たちをぶっ飛ばしてくれるものになっていて、個人的欲望を完璧に満たしてくれる映画となっている。

でもその満足感がどこからくるのか自己分析してみると、こんなことが言えるのかもしれない。

それは、ぶっ飛ばされる男性が併せ持つ支配性は自分が持っている一要素でもあり、映画を見る事でそれが正されるような感覚が気持ちよさに繋がっているのかもしれないという仮説だ。

またそういう点では、今作は女性をモノとして捉え搾取する男性ひいては社会に対してメッセージを投げかけるタイプの映画とも言えるのかもしれない。

その象徴的なシーンとして、ディメンタスとイモータンジョーが子供時代のフュリオサを奪い合うシーンが思い当たる。

そこにはフュリオサの意思はなく一人の人間の尊厳が蔑ろにされたまま、男たちの間で勝手に話は進んでいくのだ。ドレス姿でおめかしされたフュリオサは、可愛さも相まってまるでぬいぐるみ。でもフゥリオサはしっかり受け答えをして上手く立ち回るのだ。そしてこれがフゥリオサの強さであり、男社会の中で生き抜く術であり、女性の希望でもあるように思えた。

ただこの映画はそんな風に男と女の二項対立的な見方をするだけでは勿体ない作品だ。そこに支配と従属の二項対立を取り入れて捉え直してみることで、一人の人間が尊厳を取り戻していく話なんだと視野を広げて作品を理解する事ができるんだと思う。

好きなセリフが「怒りのデス・ロード」においてある。それは武器商人がイモータンジョーとフゥリオサたちのいざこざに対して「痴話喧嘩でこの騒ぎとは」と言うセリフだ。

この発言は極めて安直で短絡的なように僕には思える。なぜなら男と女の痴話喧嘩ではなく、フゥリオサたちは支配からの逃避を計っているからだ。男が女を支配する世界が狂っているのに、そのことを全く分からない武器商人。彼はまさに有害な男の象徴だと言えるだろう。

確かに今作でもフゥリオサはディメンタスという憎き男を殺すために生きている節も多分にあるだろう。でもその一方で、狂った世界から希望のある世界に移行するために動いていることも明白なのだ。

つまり今作と前作を含めたフゥリオサの物語は、男と女のバトル映画の側面と、狂った世界からの逃避行の側面に分けることができるんだと思う。

またこういう言い方でまとめる事もできるだろう。【支配と従属の二項対立を脱構築を計る上での解放の物語】だと。


「この崩壊した世界で生き残れるのは、狂ったやつだけ」

これは、フュリオサの予告編における日本語のナレーションだが、僕はここで敢えて意義を唱えいたいと思う。

ーフゥリオサは狂ってないと。

確かにフュリオサ然りディメンタス然りイモータンジョーは、一見狂っているようにも見えるだろう。でも実はそれは違くて、本来の人間の姿ーまっすぐな欲求に従い生きているだけーなんだと捉えることもできると思うのだ。

この映画は狂った人間を描いているわけではなく、希望や信念を持つことで困難なことを成し遂げたり、狂った世界で懸命に生き抜こうとする人間たちの姿を描いた物語なようにも感じるところだ。

またフュリオサたちを人間じゃないとか狂ってるとか言う人は、簡単な言葉で思考するのを放棄しているような気もするし、そういう見方をしてしまう人たちは、マッドマックスの世界と現実の世界が全くの別世界だと思っている節があるのでは、と思わずにはいられない。

正直、マッドマックスの世界観は現実にも通じるところが多分にあると僕は思っている。いやなんなら少々言葉が強いかもしれないが、現代社会の一つの縮図と言ってもいい気もしているくらいである。

僕らは安心安全の場所で映画を見ているから狂ってるとか言えるのかもしれないが、現実問題僕たちも実は狂った世界にいて、もしそのことを感じてないとしたら、それはそれでおめでたい事なのかもしれないが、もしかしたら僕らは思考停止した異常なことだと気づけていないウォーボーイズたち、あるいはシタデルのふもとで暮らす希望を捨てた貧民層と同じなのではないだろうか。

また、こうも言えるだろう。
狂ってるのはフゥリオサではなく、世界の方なのだ、と。

マッドマックスの狂った世界は権力や金や宗教に支配された世界なわけだが、それは現実の世界にも通じるところだろう。

ではそんな世界で、我々はどうやって生きていけばいいのか。

この映画はその答えを教えてくれているのだ、と僕は思う。

フュリオサは幼くして母を亡くし、故郷にも帰れなくなる。でもシタデルで暮らしていく中で、位の高いポジションにも就き、ジャックという心を許せる人物とも出会えた。

でもフュリオサはそこに留まる選択をしなかった。母を殺した仇を取るため復讐を、母との約束を果たすために緑の地を目指した。

しかしそこに立ちはだかるディメンタス。一旦はウジ虫だらけの人間がいる場所で死にかける。ここにいたら楽になるよと言われる。

でもすぐに立ち上がる。

そして再びディメンタスに挑む。
緑の地を目指す。

なぜ、フゥリオサがここまでやれるのか?

それは、自分自身で生きる価値を生み出し、それに従って生きているから、である。

現代、その生きる価値は誰も教えてくれないような世界で僕らは生きている。でもだからこそ、僕たちは自分自身で生きる価値を見つけなくてはいけないんだろう。

映画の中のフュリオサの生き様は一見狂ったものなのかもしれない。でもそれはもしかしたら僕らが忘れてしまったもので、思い出す必要があることなのかもしれない。

そう、フュリオサの生き方は、全く狂ってない。
極めて人間的な生き方なのだ。
人間本来のまっすぐな欲求に従った生き方、姿、なのだ。

この映画でフュリオサはそんな姿を全身全霊で我々に見せてくれるのだ。



<余談>
※ネタバレありです。

○お気に入りのキャラ
僕がお気に入りのキャラは、イモータンジョーかな。髪をなびかせて運転する姿だけで米食えるレベルだ。
ちなみにイモータンジョーの装備は約40キロあるらしい。

○引きの画で魅せるカーアクション
正直僕はカーアクションに胸躍らないタチなんだが、そんな自分も興奮してしまうのは、前作然り今作も同様だった。

その大きな理由としては、前作然り今作も引きの画で撮られていることが関係しているだろう。広角で撮られたカーアクションは非常に見やすく何が起こっているのか分かる。だからアクションについていける。そしてついていこうとする。

アクション映画でよくやりがちなのは、寄りの画の多用や執拗に揺らすカメラワークだろう。あれが躍動感があって好きな人もいるだろうが、個人的にはあまり好きじゃない。何が起こっているかよく分からないし、途中でついていけなくなるから。

○オーストリアの土地特有の映像の硬さ
これも好みの話だが、前作と比べて今作は、映像の質感が硬いところが少し気になった。それは今作がオーストラリアのカラッとした砂漠で撮影されたことが起因していると思われるが、オーストラリア特有の澄んだ空気や空の青さが際立ち、コントラストの強い画となってしまっていた。

またそこにCG感の映像が前作より若干多いのがノイズとなって加わり、全体的な映像は前作の方が好みのように感じてしまった(ちなみに前作「怒りのデスロード」は南アフリカのナミビアで撮影されており、その土地特有の霧が常にかかった状態での撮影だったらしく、でもそれが逆に、マッドマックスの世界崩壊後の世界観と上手いことマッチしていたように思えてならない。そして何よりダスト感がリアリティを醸し出していて、CG映像の硬さを緩和する効果もあったような気もする)。

○アクション描写の変化
ウォーボーイズの描き方の変化は、ここ10年の世界情勢の変化を加味してか、戦争での自死を英雄的に美しく描かないような制作サイドの意識を感じた。それは作品全体のテンションにも言えることで、前作よりアクション描写にカタルシスを覚えるような作りにはなっていなかった。それが物足りなさの要素の一因だろうが、これはこれで大人の嗜みでアリ。

○「怒りのデス・ロード」が傑作な理由
ラスト、フュリオサは英雄になったわけだが、彼女が意図してそうなった訳じゃないところが最高の感動を生んだ理由だと僕は思っている。フュリオサは世界を救おうなどとは考えておらず、ただ母の復讐と母との約束に従って生きている人間だ。フゥリオサはシタデルから緑の地へと世界移行をしようとしたわけだ。でも結局、シタデルに戻り世界を作り変えるというラストの展開。いやこれは半端ない物語力だなと思う。

「フゥリオサ」を見てから「怒りのデス・ロード」を見ると、さらに感動が増す。そしてついに「怒りのデス・ロード」がオールタイムベストに入りました。

○涙=エンジン
涙はエンジンのメタファーだ。エンジンとは行動の源泉である。フゥリオサが突き進む動力源は悲しみなのだ。劇中でもディメンタスが嬉し涙と悲し涙では成分が異なり、どちらかがエンジンになると語っていた(おそらく悲し涙がエンジンだと思われる)。

○フュリオサの幼少期のパートの意義
フュリオサの幼少期のパートをしっかりと見せてくれたのは意外だった。でも彼女の復讐心、その行動原理、エンジンオイルがどこから来るのか、何がそうさせるのかが理解できるので、描くべきパートではあったと思う。それに最初の逃走劇に関してはかなり躍動感があり引き込まれた。子供が砂漠を走るだけでも画になっていたし、普通に物語展開としてもかなり面白いパートだったと思う。アニャがなかなか現れないのも良い意味で焦れたかったし、子役の子もめちゃ可愛かったので全然見れました。

○AI問題
フュリオサの幼少期の頃を演じたアリーナ・ブラウンと言う女優さんがめちゃくちゃ可愛くてびっくりした。そして検索して見ると顔が違うことにもびっくりした。そしてさらに調べると映画内の顔はAI合成による顔であることが分かった。アニャとアリーナの顔をうまく混ぜ合わせて作ったものらしく、時間が進むにつれてその割合を変えていき、子供から大人への変化がシームレスにする手法をとったとのこと。こんなやり方をする映画は初めて見たので、結構衝撃だった。

でも同時に少しモヤモヤもした。これからの映画はなんでもアリになって、何を信じたらいいか分からなくなる怖さを感じたのだ。つまりはリアルかどうかがわからなくなる怖さ、いやリアルではないことが純粋に面白くないと感じてしまう人間の性も痛感するところだった。

人はリアルを感じたい、人を感じたい生き物なんだと思う。でもこれからの映画はAIか本物か、その区別は言われなきゃ分からないレベルになっていくだろう。そうなった時、僕らの映画の見方もどう変化するのか注目していきたいところである。

○フゥリオサの戦士的素質
序盤のパートが印象的だ。フゥリオサは母から逃げろと言われておきながら、母の元に戻ってしまうわけだが、それは母をどうしても助けたいという彼女の戦士的欲求からくるものだと理解できるだろう。しかしそれが故に母は死に自分も捕まってしまうわけで、母の心痛を察するにとっても胸が痛い場面でもあった。

しかしフュリオサはその経験を教訓ともせず、映画中盤でも再び同じ行動をとるのだ。この展開には驚かされると共に、フゥリオサが根っからの戦士である証拠を示しているものとなっている。正直このシーンはかなり込み上げてくるものがあり、映画全編を通して一番泣きそうになったところだった。そして思った。戦士的行動はいつでも胸を打つものなんだと。

○ユダヤ教の騎士的貴族的価値観
今作は現実的な復讐を重んじるユダヤ教の価値観をベースに作られたようにも感じるところだ。弱いことは素晴らしい、力ではなく優しさ、復讐に意味はない、暴力は解決しない、というキリスト教の僧侶的道徳的な価値観を押し出したような映画ではなく、どちらかというと、それとは反対のベクトルの、人生には成し遂げるべきものがあり戦っても勝ち取るべきものがあるというユダヤ教の騎士的貴族的な価値観を讃えた映画だろう。

また、道徳、宗教、教育などによる支配が、無欲で謙虚な人間であることを強制してくるような世界で、己の貴族的騎士的価値観を胸に潜め、虎視眈々と復讐と逃走を考えて実行に移すフュリオサには、弱者であることを賛美する綺麗事いわゆるルサンチマンの類は見当たらず、とにかくエネルギッシュで、見ていてパワーを貰えた。

○ディメンタスとフゥリオサ
ラスト、ディメンタスはフゥリオサに対して、お前は俺と同じだと言うが、ディメンタスを始末した後のフゥリオサの生き方は彼とは大きく違うものだろう。フゥリオサはディメンタスのように他人を攻撃したり自分と同じような酷い目に他人を合わすようなことはしない。逆にフゥリオサは他人を救うために動くのだ。そしてそれは自分を救う唯一の手段なのかもしれないとも思うところだ。

フゥリオサの復讐の行き着いた先で出てきた言葉としては、奪ったものを返せというものだった。しかしそれは不可能な話であり、悲しみや絶望は残り続ける。それは「怒りのデス・ロード」におけるシャリーズ・セロンの悲しき瞳によく現れていると思う。

でもセロン姉演じるフゥリオサは、自分をなんとか保つために、自分を救うために、囚われた女性を救うために動くのだ。

これは、フゥリオサの怒りが個人的なものではなくなり、社会への怒り、収奪される者全体としての怒りに変わったとも言えるだろう。

またこうも言えるだろう。アニャ演じるフゥリオサは、個人的怒りにおける復讐の物語の主人公。セロン姉演じるフゥリオサは、個人的復讐を果たした後に、社会に対する怒りを掲げた主人公。

つまり、前作から今作を含めた、フゥリオサの物語は、【社会に収奪された女のリベンジ物語】だと言えるだろう。

○ディメンタスとマックス
ディメンタスはもう一人のマックスという見方もできる。同じように悲惨な過去を背負っていて狂ってしまっている。

でも両者の生き方は違うものだ。だから今作の裏メッセージとしては、『生き方は選べる』とも言えるような気がする。


<追記>
・上下、前後左右と空間を最大限に駆使したアクションで、飽きが来ない。パラシュート、弾丸畑、塔崩壊、砂丘、など。

・直接的な暴力描写や性描写を描かないところは、安心して映画を見ることができる。これはジャッキー・チェンの映画とも通じるところ。
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