シュローダー

ドライブ・マイ・カーのシュローダーのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

今年ベスト1位の座を観る前から予約していた映画であるが、その期待をさらに上回るとんでもない映画に出会ってしまった。村上春樹作品の映画化としても、濱口竜介の映画としても完璧である。カンヌで脚本賞を取ったというのも納得な程、野心的な試みに満ちた映画であるこの作品。これまでの濱口竜介作品の中でも、劇的な展開が連鎖する。まず物語は西島秀俊演じる舞台演出家にして役者、家福と、その妻、音のやり取りを映すところから始まる。ここの場面からしてもう不穏さが滲み出ている。セックスをした後に譫言のように物語を語りだす音。音の浮気を目撃してから目に見えて声に感情がなくなる家福。互いの顔が見えずにすれ違う駅弁体位。いきなり衝突する赤いサーブ。存在が匂わされる死んだ娘。そして訪れる音の突然の死。これら全ての要素が乱打された後にようやく出演者たちのクレジットが入るという演出にも痺れた。そしてそこから始まる2年後の物語も凄まじい。家福が出会う専属ドライバー、みさき。彼女との関係性の微妙かつ確かな変遷と、日本語、英語、中国語、韓国語、そして韓国手話という多言語で形作られるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の劇。この2つの軸を持って展開していくわけであるが、この二つを引っ掻き回していくのが岡田将生演じる俳優の高槻。一見純真無垢で誠実そうに見えるが、ふとした拍子に彼自身も制御しきれない暴力性が顔を覗かせる。メソッド演技の定義を完全に間違えているオーディションでのセクハラまがいの演技や、バーの場面での怖すぎる豹変ぶり、そして映画全体を通しても白眉となる車中での家福との会話シーン。ここでの岡田将生の演技が凄すぎて観ている間思わず息を止めて画面を凝視していた。ハッキリ言ってこの高槻という男は「寝ても覚めても」の東出昌大に匹敵するくらい内面が全く読めないクソキモい奴なのであるが、そんな野郎が心の底から絞り出した「本音」が、家福をサーブの助手席に座らせ、みさきに対して本音を吐露させるきっかけになるのである。しかし、この場面に留まらず、さらなる飛躍を見せるのがこの映画の末恐ろしい所。みさきの故郷に帰郷する場面で、ついに家福はそれまで目を背けていた喪失に目を向け、自分の心の内に正直になり、慟哭する。とんでもなく長い長い長回しの果てに西島秀俊の演技を超えた「何か」が現出する。これは劇中での「ワーニャ伯父さん」の読み合わせの中でも自己言及している通り、濱口竜介監督自身の特徴的な演出法、相手のセリフを覚えるまで感情を抜いた状態で本読みを続け、本番で始めて感情を出して演技をし、それを受ける事によってさらに素晴らしい演技が引き出される。という物が齎す最たる好例である事は疑いようがない。この映画全体を通じて表現されるテーマは「本音と演技の間に違いはなく、どれもが"本物"のパーソナリティそのものである」という物であると思っているが、その最終的な結論となる場面で、家福がみさきの正面を見て、抱きしめるという行為を行わせるのがズルすぎる。濱口竜介の映画では、"ここではない何処か"に向かっている密閉空間の中でしかなし得ない関係性の変化と、そこでしか曝け出せない自分という存在の本心を肯定する。という場面が毎回繰り返される。これまでの映画ではその密閉空間とは即ち「電車」のことだったが、今回は赤いサーブ。その中で同じ方向を向きながら旅を続けてきた家福とみさきが、正面切って本心を告白し、序盤では顔を確認し合うことのできない断絶の表現として示された「ハグ」を意味を180度反転させて提示して来るからあの場面は感動的なのである。そして最後の最後に観客がみさきと共に見せられる「ワーニャ伯父さん」の本番。それまでも自身の演出する舞台で、赤いサーフの中で繰り返し再生されるカセットテープの声で、まるで死んだ妻の亡霊の様に言霊として家福の前に立ち現れ続ける「ワーニャ伯父さん」のテキストが最後の最後に家福自身に寄り添って彼の心を救う瞬間、涙が溢れて止まらなかった。この演技を我々観客と共に受け取ったみさきが、コロナ禍の「今」を赤いサーブと共に生きる姿を映し「ドライブ・マイ・カー」というタイトルがようやくお目見えになる。これを完璧と言わずとして何と言うのであろうか。3時間の上映時間の中、人と人とがわかり合い、人生が希望を持って切り開かれるその瞬間を目撃した。かけがえのない映画体験。大傑作!