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ドライブ・マイ・カーのsのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

【構造の分析】
妻の不貞に見てみぬふりをする。そんな生活を続けた家福の片目は、長い時間をかけて知らぬ間に弱っていた。鮮明な視界とぼやけた視界が二重写しとなっていた。

役者としての家福と、夫としての家福。二重生活は役者としての成功と、夫としての失敗(妻の死)に行き着く。
夫としての家福は妻を愛し、妻から目をそらした。役者としての家福は演出家として売れ、演じることからは逃げた。目薬をさした左目から偽りの涙が流れる。家福は分裂した片方に目を瞑り、絶えず分裂した。

妻を愛したもう一人の男・タカツキは若く、分別がなく、見境なく女を抱いた。家福の対極とも言える存在だ。
タカツキは空っぽだった。演じることに取り憑かれ、オトに深入りして、オトの死で箍が外れた。未成年にまで手を出し、向けられる視線(盗撮)の暴力に真っ向から抗って、身を滅ぼした。

妻が男を招き入れる家に、家福の居場所はなかった。家福にとって家とは、妻がいるから帰っていた場所にすぎなかった。オトの死後、家福の家はついに一度も映されぬまま映画は終わった。
妻を失った家福は以前にもまして、愛車のごく小さな空間に閉じこもった。心のなかでオトの存在が反響するように、愛車ではオトのテープが絶えず流された。
これはずるい見方だが、村上春樹の小説は共通して「ぼくの心のなかの小さな硬い殻に包まれた部分」が描かれる。愛車はこの硬い殻なのかもしれない。
当然ながら、妻はこの愛車をうまく扱えなかった。一方でミサキは、家福も惚れ惚れするほど愛車を乗りこなした。間接的な人殺しの罪を背負う者同士、通じ合うものがあったのだろう。
愛車のなかで、責めるでもなく嘆くでもなくただ淡々と繰り返されるオトのテープ。これをミサキは「心地良い」と言った。

タカツキが逮捕されると、二人は愛車を転がして旅に出た。愛車は長いトンネルをくぐる。ぐにゃぐにゃで、片側だけから日の差す、光と影が縞模様になった、終わりの見えない空洞。時間が二人を癒やし、夜になってようやく真っ直ぐ伸びた道に出る。二人はぽつりぽつりと、人殺しの罪を告白する。

ミサキの故郷へ着くと、いつからか響いていた耳鳴りのような走行音が不意に消える。ミサキの記憶につもった埃のような雪が、音のない時間を生み出した。
ミサキは母の中の八歳児を愛した。虐待する母には目をつぶった。家福が片目を失ったようにミサキは表情を失い、家福が妻を殺したようにミサキは母を殺した。
ミサキは母の死んだその場所に、煙草の線香を立てた。家福も顔をくしゃくしゃにして、初めて妻への感情を曝け出した。
雪と手話には無音をつくる力があり、そしてこの無音の場は、硬い殻の内部に近いのだろう。殻のなかで語られる言葉は驚くほど素直に心へ溶ける。そのままを愛しあったユナ夫妻のように、そのままのオトに目を向ければよかったと家福は遅すぎる後悔をする。

妻を殺した家福、うわ言で覗き魔を殺したオト、盗撮者を殺したタカツキ、母を殺したミサキ、流産したユナ夫妻と子供を失った家福夫妻。この映画には人を殺めた者ばかりが登場する。
ラストシーンではミサキが立体マスクを付けている。物語は、今を生きる2021年の観客へと開かれて終わる。誰もが間接的な殺人者になり得るこの時代、しかし実際のところ、こうなる以前から私は誰かを殺し続けてきた。
まっとうに苦しんで、それでも生きなければなりませんね。

【再見用メモ】
・家福夫妻とユナ夫妻の対比。口を出さない家福と、口をきけないユナ。家福は口をつぐんで愛車に閉じこもり、ユナは手話を使って舞台に立つ。
・タカツキが愛車に乗るということ。タカツキが乗るときは必ずタカツキから申し出て、家福の承諾を得る。乗車したタカツキは挑戦的で、家福は受け手にまわる。
・走る愛車を遠くから撮すシーンの時間配分。序盤は短く、終盤になるほど長くなる。他の映画なら冗長なだけの走行シーンが、ドライブマイカーでは意味を持つ。

【感想】
村上春樹を初めて面白いと思った。名著から引用して場面に当てはめるだけでなく、引用する行為自体に意味を持たせる巧みな構造には唸る。
原作を読もうと思う。村上春樹の虫唾が走る文体を想うと気が滅入るが、監督がどこを削りどこを改変したかを確かめたい。私はたぶんこの監督が好きだ。
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