足拭き猫

ドライブ・マイ・カーの足拭き猫のレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.9
だいぶん前に観たのにレビューが書けず。
会話劇なのにテンポが良くてすらっと観れてしまったのはよいのだが、全体的にあまりはまらなかったので、なぜそうなってしまったのか考えてみた。

冒頭、車の中で妻が吹き込んだ「ワーニャ叔父さん」のテープの声とそれに応える形で家福が台詞を喋るが、聞いていくうちにこれが家福の心情を説明しているものだと気付く。もともと言葉で説明される映画が苦手なため手法がだんだんクドイと感じるように。

次に多言語で構成される劇について。字幕が上の方に表示されるのは、能や外国語のオペラでも採用されている方法だが、下の方にいる人の演技を見ながら上の方の字幕を読むのがどちらにも集中できないので好きではない。それ以上に、会話ってぼんやり聞いていても頭の中に入ってきて感情が揺り動かされる事象だと思うので、練習でそのレベルまで持ち上げるにしても、セリフが叩き込まれていない観客は相当疲れるだろうなぁというのと、言葉のリズムが無茶苦茶になりそうなので果たしてそれは面白いのか。思い返してみると、手話が一番邪魔にならないと感じたのはそういうことだったなんだな。

それとあれだけ一緒に車の中にいたらお互いのことを会話しないのかなぁと、世間話というのはあなたに興味がありますよという事とともに、相手に対する心遣いだと思っているので不自然と思ったのと、二人が親しくなってからも家福が満足そうに亡くなってしまった音の声を相変わらず車で聞いているのが気味悪かった。
また、家福とみさきが抱き合うのもなんだか興ざめでそうしなくても心情は理解できたのにな、とか。

つね日頃、黙っていることができなくて自分の感情を喋ってしまう自分としては、作品のテーマに「だからさ」と思ったのだが、ということはこれはかなり日本人的な映画でもあるのか。

自分の存在を知られないように海底にひそむやつめうなぎや、偲びこんだ女子高生の物語の続きを高槻のみが知っていることを知る衝撃の場面、何を言っているか相手には聞こえないけど監視カメラに向かって「自分が犯人なんだ」と口を動かして訴える少女の物語など、音として発せられる言語は無意味で心の中にある事柄が本物、だがしかしそれを知るにはやはり音の波を発することでしか分かり合えないという皮肉。
表向き幸せそうに見えて、お互い理解し合えてなかったのは苦しかったのか、あるいは割り切って家福にないものを他の男たちに求めていたのか、でも音の表情はしんどそうだったよな。

(ということでやっと感想らしきものが書けた!)