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ドライブ・マイ・カーのrexsolusのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

 この映画で一番気になったのは、冒頭部分から役者さんたちの長セリフが、全てただの棒読みであること。(字幕を読む他国語圏の人は気づかないかもしれない…)意外と指摘する人は少ないが、それを酷い大根だと酷評するレビュワーもいる。確かに、現実にはありえないくらい饒舌に哲学的考察を交えて喋り続ける不自然さはあるのだが、脚本が原作を消化しきれておらず、それに役者さんたちの力量不足が重なったせいなのか、あるいはあえてそういう演出にしてるのか悩んでしまう。
 演劇祭の劇の稽古で、最初は全員徹底的に感情を抑え役柄も表現せずにただ台本の棒読みを繰り返すというシーンが出てくる。本番で初めて感情を込めた演技するというのは、監督自身が使うメソッド?でもあるらしい。また役者でもある主人公はベケットやチェホフの書いたセリフ=テキストと格闘し続け、それはいろいろな形で本編のストリーとシンクロする。それだけセリフというものに対する強いこだわりがあるなら、ひょっとすると本番での棒読みも監督の指示なのかもしれない。
 村上春樹は言葉=文字だけでしか表せない文学空間を創造するタイプの小説家だと思う。つまり、本来映画化には向いてない。あえて映画にするなら相当大胆に内容を書き換え、そのニュアンスだけなんとか残す程度か、それにも失敗してとんでもない駄作になるかである。村上作品の登場人物は、現実社会に生きてるようであっても、実はすべてファンタジーの中のキャラクターのようなものであって、リアルな人間として演じるのは至難の技である。この映画では、はなから村上春樹の文学空間全体を映画化することはあきらめ、登場人物のセリフをテキストとしてそのまま埋め込む=棒読みすることによって、部分的に共存させることを選んだのではないだろうか。
 個人的には、それもダサいと思うのだが、棒読みセリフの不自然さを除けばw、役者さんたちはみな魅力的だったし、いろいろな短編小説を継ぎ接ぎしながら飽きずに見れる3時間の長編にまとめ上げた力量は大したものである。同じく村上作品が原作の「バーニング」も見比べて見よう思う。
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