ryo

ドライブ・マイ・カーのryoのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

(個人的にはとても語りたくなる作品。長々と面倒臭いウンチク・ネタバレ語りマス。ご注意くだせい)

濱口監督の作品は基本的に戯曲研究がベースになっている部分があるように思う。それが色々と面倒臭い印象を醸し出しちゃってるのかもしれない…。(いやきっと醸し出してる!)

そして今作は全振りで演劇界の神様仏様チェーホフ様にぶつかっていった作品。

村上春樹の原作は未読だが、劇中劇の『ワーニャ伯父さん』の戯曲は読んだことがあるのだけど、あの時は、あの長台詞にこんなに感動はしなかった。無機質な言い方だがチェーホフのセリフを言うための人生を、演繹的に考えたのがこの映画のシナリオのように感じた。
チェーホフはかなり雑に説明すると、普通の人が日常の中で感じる悲しみや苦しみを描いた劇作家です。それまで主流だったシェークスピアのような派手な事件や派手な演出が無いのが特徴です。

チェーホフ的な『日常の苦悩』は全ての人が抱えていますが、演者としてチェーホフのセリフを言うためには自分が『日常の苦悩』と対峙し、捉え、表出できなければ、俳優として『演じた』とは言えません。(これは作中でも同内容のことが言及される)

(以下、もう役名覚えていない…)
西島秀俊は岡田将生に、西島の妻が、夫(西島を示唆した人物)を「私が殺した」と言っていたと告げられます。西島はずっと妻の行為に傷つき、そこから感情を出すことを避け、妻とぶつかることから逃げていた『生ける死者』であった。(だから彼はチェーホフの舞台に立ちたがらなかった)
ちなみに序盤で西島が上演している劇中劇、ベケットの『ゴドーを待ちながら』は待ち人がやってくるのをひたすら待ち続け、来ないことに失望しながらも動かず時間(人生)を費やし続ける二人の男の話です。(不条理劇の代名詞と呼べるような劇作家の代表作です)。
岡田に「自分を見つめなければ」と言われた西島は初めて妻にぶつかっていかなかった後悔を吐露します。(『ゴドーを待ちながら』の登場人物のように動くことをしなかった)衝突でも何でもしていたなら妻は生きていたかもしれない。(例え死んでも、その悲しみを自分の中で形作ることができただろうと)
かくして彼らは意気込み新たにチェーホフに挑みますが、岡田は人を殺してしまいます。殺人は『チェーホフ的日常』から逸脱した行為です。従って岡田はチェーホフの舞台から現実的にも隠喩的にも消えることになります。
舞台に立つことになった西島は、それに背中を押される感じで三浦透子と共に彼女の故郷に向かいます。『日常の苦悩』を、自分の中で咀嚼しきれない他者を、より見つめ直すために…。この映画の中ではパートナーの浮気と死、自らのアイデンティティーの希薄さ、ネグレクト。愛したい人が理解できないということ(この監督がよくテーマにしているやつ)。そしてここが特に濱口監督的だと感じたのが自然災害で親族を亡くすことも、どこか遠い悲劇ではなく、我々に当然あり得る『チェーホフ的な日常の苦悩』として描かれます。
彼らは『日常を生きる苦しみ』を、理解できない他者を、必死で心の中で受け入れます。心の中に喪失としての形、あるいは『そうやって共に生きた』という形を与える。理解するのではなく、ありのままを呑み込む。
そして、最後のチェーホフの舞台。主人公たちの人生をここまで見てきて、あの有名な長台詞が観る人の心に刺さったなら濱口監督の試みは成功と言える。
…という映画としてみました。
(成功か失敗かの判断は人それぞれ)
こういったことから、どこか実験映画的な側面も本作からは感じました。

正直言って、本作を穿った目でみていて批判してやる気マンマンだったが、結局、絶賛するハメになった映画。

長々とつまらないレビューしてスミマセンでした…。
個人的にはとても感動的な作品だった。人には勧めませんが…。
ryo

ryo