ドライブ・マイ・カーの作品情報・感想・評価

「ドライブ・マイ・カー」に投稿された感想・評価

けい

けいの感想・評価

4.0
映画のような小説?あ、小説を読んでるような映画。めちゃくちゃレビューが難しい。一部の人には傑作で、一部の人には駄作になりえる。

ここまで大人しい映画なのに、ちゃんと起伏を感じられたのがすごい。

個人的にはここまで静かで長時間の映画を寝ないで見れたのはスクリーンだったからだと思う。ただ、だからこそゆっくり時を感じた。

年齢を重ね、出会いや裏切りを経験すると色々としみる。
相手にちゃんと怒りたかったし、自分と向き合えてなかったし、相手とも向き合えていなかった。そういうことを思い出した。

すべてがセリフで、すべてが演技で、すべてが舞台で、すべてが旅。

なんかそういう話。
21/9/27@TOHO新宿#1

<違和感の正体>

「車に乗っていることを忘れる」みさきの運転のように、映画を見ていることを忘れる不思議な違和感が続く3時間。

台詞が廻しが独特で、明らかに普通の映画のそれとは異なる。本読みのシーンだけでなく、日常会話からしてストレンジな、悪く言えば「血が通わない」空虚さが続く。これは言語と非言語表現を分離すると、コミニケーションはどう変わっていくのか?を試しているようにも見える。さらに多言語、手話といった「制約された」コミュニケーションを挑戦的に描写していく。

つまり本作は、家福とみさきの人間ドラマと同時に、そういう「機能不全に陥ったコミュニケーション」の実験が静かに並走する。それが鑑賞中に感じる違和感の正体だったのではないか?観客はドラマを追いながら、脳の反対側では無意識に「コミュニケーション論」を展開していく。これは飽きない濃密な時間だ。

ワーニャとソーニャのラストシーンが感動的なのは、言語&非言語のあらゆるコミュニケーションスキルがそこに集約されているから。何より忘れてはいけないのは、ソーニャの手話に付けられた字幕という「テキスト」だ。特に日本語という表意文字は(英語の様な表音文字以上に)強力なツールになる。劇中で家福がテキストへのコミットを繰り返していたように、濱口監督が示す「ワーニャ伯父さん」と村上春樹へのリスペクト。自ら脚本を書く監督ならではの美しい着地。

晩秋の澄んだ空気と、夜を滑走する車のなまめかしさを捉えた撮影も素晴らしい。原作の黄色を改変した赤い車体が、青い海と白い雪に映える。
   
Y

Yの感想・評価

3.5
監督は男性の弱さを描いたという。
はじめはドライバーを拒むが、テストドライブで彼女を受け入れる。ドライブすることは主導権を握ることだから。
固執していたものを手放し、他者にゆだねる。
だんだんドライバーとの心の交流が進むにつれ、後部座席から助手席へ。

窓から二人してタバコを出すシーンでは、対等なかっこよさがある(ブラックラグーンのタバコを吸うシーンみたい!)。
そうすることで、自分自身の弱さに気が付き、向き合っていくことができた。
「正しく傷つくべきだった」という映画の最高潮まで。
kouki

koukiの感想・評価

4.4
作中で話題にも出てくる渡利の運転の滑らかさのように、この映画での物語の紡ぎ方、カットの繋ぎ方が尋常じゃなくスムーズ。劇中劇のセリフのギミックも巧妙で、登場人物の心情によって同じセリフでも始めと最後で全く意味が違って聞こえる。

また、舞台劇のシーンの比重が多いとおそらく小ぢんまりした印象になるかもしれないが、舞台→ドライブの流れがあるので静と動が交互にきて、全編通して常にリフレッシュして臨める。
9/17 TOHOシネマズ日比谷(2回目)
9/24 TOHOシネマズ新宿(3回目)
あ

あの感想・評価

5.0
私という器の中で、わたしが熱と冷を帯びて這いずり回っている、コントロールできなくなった私は外に出る、歩く、運転する、船に乗ってみる 密封されたわたしはそうやって過ぎていく速度に身を投げて、この肉体と睨めっこしていた Lost my way 行先も帰り道も無いけれど、この路地を抜ければ大丈夫だって、ごめん、強がっていた、本当は君を失うのが怖いんだ 鏡、他者という鏡を抱きしめる、『大丈夫だ』って、そういう瞬間には同時に自分も抱きしめる 私はわたしを見つめる、あなたも見つめる、そうやって私たちは透明な色をした日々に帰っていく
Shiori

Shioriの感想・評価

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英文法的にいえば"drive my car"は”I drive my car”の”I”の省略もしくは「私の車を運転しなさい」という命令形の二択である(単に"driving my car"だと語呂が悪いからという可能性はひとまず脇に置いておく)。家福は命令して自分の車を人に運転させることはしないから、タイトル"drive my car"は「(私が)私の車を運転する」。
家福は家福の車を運転する。それは彼にとってとても大切な時間である。自分がハンドルを握ること。
中盤、私が私の車を運転しない(できない)ときが訪れる。他人にハンドルを握らせること。他人の運転に身を任せられるのは、彼女の運転がうまいからという理由だけなのか。音との違いは。
そしてラスト、映る見慣れぬ場所は「今」の私たちとおなじ渦中にいるようだ。そこでは、私の車を取り戻した私が、私の車を運転している。
夜に車を運転するシーン、あんなに美しいと思ったのはアルメンドロスが撮影した『満月の夜』以来だ
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