平均たいらひとし

浜の朝日の嘘つきどもとの平均たいらひとしのレビュー・感想・評価

浜の朝日の嘘つきどもと(2021年製作の映画)
4.4
~映画館で暗闇と残像を見つめていたって、そりゃ、お腹は満たせない。でも、ハッタリ使っても正論に立ち向かえと、心が叫ぶのよ。~

胸に抱えた「空虚」と、それを取り繕うかの空回り同然の悪あがき。「ふがいない僕は空を見た」以来、描かれる完璧には程遠い、欠点の目立つ人達に惹かれてタナダユキ監督作品を、追いかけている。

前作「ロマンスドール」も意欲作ではあったけれど、題材に対して、ちよっと散漫だった印象が残りました。そんな流れで本作は、福島県に実在する、開場から1世紀超の歴史が刻まれた「朝日座」を舞台に、創作された映画館と映画に係る人達の物語である。

潰れかけた映画館を立て直すストーリーの骨子から思い起こさせるのは、お客が離れて立ち行かなくなった現実を、賑わっていた劇場の在りし日が、燦然と光り輝くように祭り上げてノスタルジー色が掻き消してしまう、感動の安売り的な流れ。更に、著作権的な縛りもあって、実在する「映画作品」を取り上げ難くて。誰もが知る有名作品では、劇中、触れられないし。架空の作品をでっち上げても、リアリティが薄まって、見る人との間に溝が乗じてしまうし。スクリーンに、うつしだされるまでは、前作の挽回も、難しいかと懸念も先立ったりして。

しかし、本作が開巻して間もなく、それは、雲散霧消されて、すんなり、作品に没入できました。3.11の震災が、地元の方にもたらした、知られ難い不和。そして、このコロナ禍で私権を奪われ行動の自由が限られた結果、不要不急で窮地に追いやられたエンタテインメント産業という現実を照らす一方で、使命や思いに突き動かされて、出まかせでも、どうにもならない現実の壁を前にのたうち回る人達が、愛おしく映って来て。安易な「結末」は、勘弁だったのですが、本作の終りには、きちっと、松竹映画の大巨匠作とは別の「キネマの神様」が、降臨してくれて。決して、お腹を膨らませてはくれないけれど、映画には、人を救う何かがある事を示すためには、「朝日座」の扉を閉ざして終わらせては、ならないのである。

長きに渡って地元に残る「名画座」として、愛されて来た「朝日座」だったが、東北震災を乗り越えたものの、今の厳しい状況には打ち勝てなかった。3代目の館主、柳家喬太郎さん扮する森田は、通りから奥まった場所に立つ「朝日座」の玄関前で、長い間に溜まり積もった昔の映画の上映フィルムを、自責と悔しさを抑えながら燃料缶の中へと燃やし捨てていた。そこへ、若い女性が、通りからキャスター付きスーツケースを持って駆けてきて、必死の形相で、森田がフィルムに火を付けるのを止めに掛って来た。突然の出来事に上気した彼が、まず、彼女に名のる様に求める。

若い女性、つまりは高畑充希さんなのだけど、一旦「朝日座」の閉ざされた切符売り場の窓口に視線をやると、茂木莉子(モギリ)だと名乗る。「神の使い」と称して、孤児院救済の強引な手立てを正当化した、ブルースブラザースの如く、森田のお爺さんから、「朝日座をツブすな」との遺言を伝えに来たと、勢いで口について出た出まかせでもって、閉館への未練を断ち切れていなかった森田を巻き込み、茂木莉子は、クラウドファンディングを活用した「朝日座」復活計画のために、しゃにむな行動に傾倒して行く。

茂木莉子は、古き良き映画館を守る「一点」に邁進するため、自分自身の事を伏せる。その事を突かれない為の「防衛」からか、年配の森田に対して、突き放す感じのサバサバした口調で話す。そして、気の優しい森田も、突然の行きがかりで加わって来た映画の援軍を、不平を漏らしながらも受け入止めて、同じように再会を軌道に乗せるべく前のめりになって行く。「黙れ、ジジイ」の文字に起こすと非礼な高畑さんの投げ掛けも、しょうがねぇなぁって感じに、柳家喬太郎さんは聴くのだけれど。噺家ならではの、懐の深さで、若い娘の勢いを包み込むかのように、二人のやり取りも、次第に心地よく響きます。

コロナ禍での撮影もあったのかもしれませんが、「朝日座」を正面に据えて、二人が、画面の左右両端に立って芝居をするショットが多いのですが、互いの素性は置いておいて、廃れた街の映画の灯を再び掲げたいという「願い」だけを共有しているかのようで、二人の間に気持ちのいい空気が流れている風に受け取れました。

作品で見せる、映画館に掛ける既成作品についても、サラリと触る扱いで巧くすり抜けて。(その中で、「トト・ザ・ヒーロー」に、「大誘拐」と、気に入っている作品を取り上げて貰ったのにも、くすぐられました)映画全盛期と違って、更に便利になって、嗜好も多様化するなか地方の映画館存続が、簡単な訳が無く。「映画館が、なくなる時になって、閉館を惜しんで。何時までも、身近にあるものだと思っている」と、大手以外、軒並み閉館に追われている、映画館が置かれた現状にも、立て直しに向けた悪あがきの中で、触れられていて。面白さで貫かれている中、現実を見据えていて、浮足立ってなかったりする。

作品は、映画館復活に奮闘する二人や、地元民の描写と併行して、茂木莉子と名乗る彼女が、どうして傾いた「朝日座」の立て直しに現れたのか語られる。彼女の本当の名前は、このタイトルにも、織り込まれているのだけれど。その名前は、なんでもなかった家族が、「形骸化」してしまった切掛けを現すものとしても、記憶されていて。

詳細は記述しないけれど、3.11の復興事業が実施されて、父親の光石研さんは、郷土の為と新規事業を起こして、福島原発事故からの回復に尽力するのだけれど、復興に乗じて金儲けしたと、周囲から批難を受けて。母親は、体の弱い弟に掛かりっきりになるあまり神経を病んで娘に辛くあたり、父親は、起こした事業を完遂するため家を出て、茂木莉子は、高校二年生の3学期には、「孤立」して、世間に対して絶望していた。

そんな彼女を救ったのが、大久保佳代子さん扮する高校教師、田中茉莉子だった。熱血とか、人情肌だとか教師の理想像から、田中先生は、程遠く。飄々と、サバサバしている。校舎の屋上で、思い詰めて立ち竦んでいた莉子と、出くわしたのだけれど。「人間、どうせ、長くは生きないんだから」と、自分の憩いの場として使っている、元映画研究部の部室だったらしい部屋へ、彼女を伴って、置かれているDVDプレイヤーで、何度も見返すお気に入りの映画を見せる。「本来、映画館で見る映画というのは、銀幕に映る映像と暗闇で成り立っていて、感動を貰う映画館の半分は暗がりで、そこに引き寄せられたりする映画好きも、ネクラだったりするのかも」とか説いて、田中先生は、莉子を映画好きに導いた人で、「朝日座」の立て直しは、恩師の望みでもあったのだった。

母親のツテを頼って、高三で莉子は都内へ引っ越したのだけれど、新しい生活環境に馴染めなかった彼女は、夏休みに家出をして、田中先生の住まいを訪ねる。自宅の前に立つと、中から若い男が出てきて、その後を部屋着の先生が追いかけてくるという、失恋の現場に、いきなり出くわしてしまって。聖職に身を置きながらも、欲望というか、男性を追い求める本能に忠実だけれど、熱意故か、すぐ相手に飽きられ捨てられる。本来、見せてはイケない弱みも、全く隠す素振りがない。そんな、だらしない田中だけれど、莉子を自宅に招き入れ、ドロップアウトした彼女に寄り添う。普段、TVのバラエティで見せる大久保佳代子さんと、全くの等身大というか、あて書きしたかの役のハマり具合。

本来、恩師というのは、完全無欠の人格者として作品の「良心」に祭られるものだけれど、全く、先生らしくない。欠点の多い人達をこれまでも、タナダ作品で何人も見て来たけれど、中でも、この恩師は、出色だった。田中先生も、父親と折り合いが悪く、家を出て、福島に身を置くことになって、莉子と重なる部分がある。

進行形の傾いた「朝日座」を立て直す中で、腹の足しにもならない映画館の「灯」を守るという理想論と、目前にある「生活」を維持して、日常を続けて行くという現実論の相克が、露わとなります。実は、街中のいい場所にある「朝日座」は、取り壊し後、スーパー銭湯とリハビリ施設が立てられる予定があったのだが。それを反故にしようと、二人は空回りな行動をしてしまっている事に、世の中には、自分たちの行いは、望まれていないのではと、理想と反対の揺り動かしが働いて、ためらいの気持ちに囚われる。そして、もう一つの「足枷」は、他人の繋がりよりも、親と子の「血」の繋がりが、生きてゆくにあたって、何よりも、先立つという事。

高三の夏休みを田中先生の元で過ごした事で、「血」の繋がりをタテに、母親から恩師へ迷惑を掛ける事態を招いた莉子だったので、森田に名乗る際、偽名を語ったのは、過去への反骨や決別の現れもあったのかもしれない。個人の在り方が、尊重されるようになって来ているとはいえ、世がコロナ禍となっては、社会全体の存続、あり方に掛かって来て。映画館の暗闇に身を置いて、投射される残像に見入る事を「良し」とするより、家族を単位に、体面を保ちながら、将来に続く生活のタネの確保が、どうしたって優先されるのは、自明の理。


さすがに、この作品も、その辺の分別をわきまえていて。
打つ手も尽きて「朝日座」を目前にして、莉子と森田が、両端に立って、これまでの「健闘」を称え、語り合っている。でも、映画館が、不要だったとは認めがたい。共通の目標に向かう日々を重ねたのもあって、すがる思いから、何かを期待して振り向く動きがシンクロする。
演者同志の間が合った、その一コマは、奇跡の訪れを絶妙に表現していて。

映画へ向けた愛や、映画界へのエールを掲げるためにも、閉幕には、「福音」が必須だけれど。人情や、ノスタルジーだとかで、絵空事に染め上げるのではなく、現実との折り合いを付けたという事でも、そこでは、「血」の繋がりが、モノを言うのは、莉子が、家族を受け止め一歩進むためにも、あるべき帰結でしょう。(判り難くて、スイマセン)

スクリーンに写される残像と暗闇を見つめる理由を、湿っぽさとは無縁に、可笑しさ、愛おしさ、暖かみのうちに、あらためて、知らしめてくれる。映画館が、何時までも、そこにあるとは思っては、いけません。田中先生が、莉子と過ごしたひと夏を「一人の迷った女の子を、ここまで映画好きに出来たのは、上出来かな」って振り返る。映画館に通う事と並んで、心掛けるべきは、身近な存在に映画をかたる事と、思いをあらたにさせてもらいました。

拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
ジョイランド三島 cinema3にて