ニューランド

浜の朝日の嘘つきどもとのニューランドのレビュー・感想・評価

浜の朝日の嘘つきどもと(2021年製作の映画)
2.9
☑️『浜の朝日の嘘つきどもと』(2.9p)及び『街の上で』(4.3p)▶️▶️
強め色合いの特定地域での、コミュニティのあり方⋅方向の不思議な因縁のあり方を、「映画」(半ば)生業ともしてる人たちの生態に絡め描く二本立て。
『浜の朝日~』。「映画館よりも、スーパー銭湯にする事が地域には正しい事。映画館では人は救えない、疲れた心を癒すだけ。スーパー銭湯は雇用を生む。離れてしまった子供⋅きょうだいも戻れる。最後は血⋅家族というは、幻想かも知れないが人はそれにすがりたいもの。・・しかし、(震災で幸せだった家族の心をバラバラにされた私は、)その幻想に頼らずも済む、コミュニティこそを、そこに映画館も、と考えてた。しかし、それは消えて初めて気が付くような、淡い認識しかないもの。」 映画のコマと闇の半々切替えの話もまた出てくるが、言ってる事はともかく、どこまで本気の作品か、と疑いたくなるトーンが続く。この後、テレビドラマが受けての続編というか本編があるみたいなので早計は避けるが、観てて退屈はしないが優れてる⋅感動的とはとても云えない。 寄りのアングルも丁寧な正確な切返し、主調はスコープサイズのアングル切替えも落ち着いた⋅時に静謐な横移動を加えてる⋅長回しの安定感、この10年ばかりの間の恩師の女教師との回想シーンが3回か介入してくる。瀬川⋅増村⋅グリフィス⋅キートン⋅現代台湾映画ら引用映画のセンスも、よくわからないが、いいのだろう。 老若男女コンビに、地元の面々、の掛け合いも面白い⋅か? 震災による挫折や分裂⋅クラウドファンディング⋅ 歳の離れた異国カップルら、の時代も繁栄してるが。郡山~東京~南相馬~ベトナムを、家族⋅高校師弟⋅配給業⋅映画館興行⋅恋愛が、震災後10年⋅追体験⋅交錯してく意識と身体⋅コミュニティを描く訳だが、名作を懐かしむ(あまりついてけないし、冒頭の勝手に燃やしてるフィルムは、誰の物なのだろう、戦前の物だから犯罪にならないって訳でもあるまいが)のはいいが、独創的な提案⋅行動⋅パフォーマンス⋅狂気こそを観たかったが。それが竹原ピストルを招いてのTVでの続編なら、採点不能かな。
まぁ、商業映画の映画愛映画は面白かった事はあまりない、映画観が作者と違い過ぎるのかも知れないし、実験映画の様に直に伝わる前にシステムや回収という完結に向かう物が入るせいか。トルナトーレ⋅トリュフォ⋅Wアレン⋅フォッシー⋅アザナビシウス⋅山田ら。数少ない例外が、ウェルズ⋅フェリーニ⋅ゴダール⋅キートン⋅大林か(いや、結構ある、まだまだ他にも)。
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『街の上で』を初めて観た時は、主人公の俳優の『愛が~』の記憶からの男の女々しさの前提、或いは学生映画の撮影風景の旧態依然に辟易の所があったが(それでも、結局は恐るべき傑作と感服したが) 、改めて観ると、イハとのトゥショットを中心としたあらゆる境界を突き崩してくる『アイリッシュマン』 のホッファ殺害シーン以来のスタイル=内容以外でも、あらゆる女優さん⋅輪舞の様なエピソードやキャラの繰返しの変奏は、全編絶品というしかない。設定⋅描写方向以前の、いつしか委ねきっていたい世界がある。お互いに強い絆まではなくも忌憚ない⋅ふんわか微睡み落ち着くに浸ってる知り合いか、下北沢の街の空気の、初対面でも謎をなぞらすだけで深くは入らず⋅柔らかな共犯関係の未来が拡がるかにしての、目覚めや意志が本人ら気づかずも内の内に刻まれてく、出発点の繰返しとしても。音楽の劇中生演奏からの全編への染み渡り、退き図の90°変やどんでんのフィクスめ長め中心(フォローやパンも、奥めに人らを詰めることも時折り)ながら、寄りの切返し⋅複数要る時の無意識が向き切り取る所の変移(背越しや正面の決め方も)によって角度が切り替えられ、果てないチグハグが続く(ナレーションで纏め速めたり、同時進行別れ話切返しの介入⋅併行の、敢えての映画的短絡話法も引き込み)。画調も場面場面で整えてるが、空気⋅雰囲気にそのまま沿ってて、前後とは揃えず、深め強かったり、浅かったり、暗めだったり、その広い呼吸感が素晴らしい。
「謝り戻るべき、勝手な浮気した上に、去り別れるのは許せない」/「上手くいって欲しくないけど、告白頑張って。好きだから」/「音楽(活動)の事を聞かれるは、恋愛についての事くらい、僕には心の内を開く事。つい親しく聞き返した」/「文化は残るというが、変わる街もかくあったという事実も同じ重さ」/「酷いというが、勝手に自称小説家→役者と同じく、採用を思い込んでただけかも」/「知り合ったばかりの友達だと、こんなに何でも喋れるとは」「でも煩しい嫉妬等の感情は、何かの証拠」「(意識してくると)壊れっぱなしや(。それでも友だちに)」/「マスター、あんただけは許せない、汚い」「違う。話を聞いてただけ。ユキの相手は別、云っちゃえよ。そもそも、そっちこそもう次の相手が」「違う、彼女じゃない」「えっ、違うのか(じゃあ、鍵は渡せない)」「いや、ここでは彼女」「えっ」「青さんは、今でもユキさんの事を」「あんたは何なの」/「従妹は三頭身、結婚できないけど、告白しなければ前には」「有り難う、お巡りさん、決心がついた」/「(青さんのシーン、)カットしたら、存在した価値も否定される」「ヘタやったから」「あなたは?」「友だちです」/「行ってもしようが」「シーン残ってましたよ」「上映会、またあったら、呼んで」「・・・」
正に書き込んだ台詞なのか、スポンタニアスに出てきたのかわからない、絶妙の距離と関係性を計りながらの奇跡の会話たち、しょうもなくしかし不思議な節度が。しかし、否定の否定が、屁理屈を越えて、内心から生み出され、関係を客観化して鍛えてはいってる、巧妙な個の主張の滲みがある。それでも、イハのシーンだけは、本当に映画⋅ドラマとしても、どうでもいいような、価値の認めようもない、低温度のもの。しかし、観てる側の映画を観てる構えを、一挙に解き放ち、何処へか分からない、ちとない好ましいワクワクもする緊張を与えてくれる。その彼女も友だちの自然な提案が、第3者にも流れ上繰り返す内に、自然体は廃れドラマの入り口に持ってゆかれる。涙さえたまってくる、表情が仕方なく、辛かったり悲しかったりしてくる。その必然からの抜け道はあるのか。大学では音楽もやってた古着屋勤めの⋅見掛け反し奥手めもものの術も心得てる主人公(青)、自分勝手も正直なフッてフッて戻るに行き着く彼女(雪)、妻子ある男としか深くはなれぬも⋅善意や好奇心も息づいてる古本屋のバイト娘(田辺さん)、映画作りもスタッフとの恋愛も極めて真っ当⋅スタンダードな女子大生⋅監督(町子)、客観的にアドバイスや仲立ち⋅感想述べてく喫茶店やスナックのマスター。皆屈折あるも、正体明かせるが、大学映画作りのスタッフで広い自室を控え室提供の、イハだけは頑と隠してる訳でもないのに、謎を持たせたままの存在で描かれてる、見るからにクリア⋅独立的なのに(ラーメン屋で再会⋅目と笑み交わす風俗嬢の記憶と通じてる)。