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アメリカン・ユートピアのペインのレビュー・感想・評価

アメリカン・ユートピア(2020年製作の映画)
4.3
世界的ロックバンド、トーキング・ヘッズの元ヴォーカリストであるデヴィッド・バーン による伝説のブロードウェイショーの映画化作品。地元の映画館では本日最終日だったので滑り込み鑑賞。

映画をある程度観てきている人であれば、あの『ストップ・メイキング・センス 』から36年の月日を経て再び!デヴィッド・バーンが帰ってくる!という興奮を禁じ得ないだろうし、また同時に一抹の不安も抱くだろう。

そんな『ストップ・メイキング・センス』は有無を言わせぬライヴコンサート映画史上の紛れもない金字塔である(※今ならY○uT○beで観られるor7月に都内で爆音上映決定したので未見の方は是非観て頂きたい)。

というわけで、既に36年前にそんな“金字塔”が打ち立てられているわけで、当然その『ストップ・メイキング・センス』と本作は“どちらの方が優れているのか”という議題は避けては通れない辺りであろう。監督も違えば、主演であるデヴィッド・バーンも当時は33歳だったものの今や70近い爺さん。見るに耐えない代物になっている可能性も否定は出来ない。

しかし、どちらが良いと現段階では断言こそは出来ないものの、デヴィッド・バーンは自らが打ち立てた36年前の“金字塔”から更に大幅に“進化”し、“更新”してきたと言える。

映画冒頭、OPトークでデヴィッド・バーンは人間の脳についての話を始め、こう話す→「赤ん坊の脳内には神経細胞間のつながりが大人より多く存在する。つまりは大人になり成長するにつれ人間は神経細胞間のつながりが減り、馬鹿になっていくとも言える。私のような老人はその極みだろう」というようなことを説くのだが、その後に彼はこうも続けるのである→「脳の神経細胞間のつながりの減少は進む一方だが、それ以外の外部とのつながりは増やせる。つまりは人と繋がるということでもってそれは補えるのではないか」と。

たしかに脳の神経細胞間のつながりが減っていくが如く、彼の見た目やパフォーマンスのキレも36年前に比べれば白髪交じりになっていたり、鈍くなっている部分があるのは否めないかもしれない。しかしその反面、当時は観客に笑顔1つ見せることもなかったバーンが、「意味など捨てちまえ」と歌っていた彼が、自然と我々観客に微笑みかけたり、ユーモアをふんだんに交え、饒舌に話しかけている。これは紛れもなく“進化”である。

そんな曲と曲の間に語りかけ訴える“今”の彼によるニヒルではないストレートな言葉(※選挙の重要性や、ブラック・ライヴズ・マターの問題等にも言及)が、よりそのパフォーマンスに重みと説得力を加えているのである。

演出面に関して言えば、監督が36年前の『ストップ・メイキング・センス』ではジョナサン・デミ(※『羊たちの沈黙』でアカデミー賞総ナメ)だったのが、スパイク・リー(※「ドゥ・ザ・ライト・シング」や「マルコムX」等の骨太な社会派作品で一世を風靡)に変わったこと。『マルコムX』以降、スパイク・リー監督は政治的主張とエンタメ作品としてのバランスが悪い作品を連発しているイメージだったが、一昨年『ブラック・クランズマン』で久々にバランスの良い作品を撮り勢いづいてる感があったが、本作でもそのバランスは良かった。一瞬、俺が俺がと暴走気味になりそうな危ない瞬間はあったがw、ギリギリのところで持ち返していた。

電球を使ったダンスや影を効果的に使った演出など、『ストップ・メイキング・センス』の頃から変わらぬ徹底的にデザインされたステージングというコンセプトは見事という他ない。

“体感型”という言葉がこれ程しっくり来る映画もないくらい、劇場での鑑賞がベストな作品であり(※そもそも本来はすべての映画は劇場で観られるべくして作られてはいるのだが)、本当に観ていて踊り出したくなるのを禁じ得ないような凄まじい映画体験でした。ある意味では、躍りたくなるのをこらえ続けなければいけないという意味では観るのが至難の映画かもしれません。




P.S.
以下、ネタバレ




ライヴ終了後、デヴィッド・バーン及びバンドメンバー会場を自転車で後にしていくエンドロールがとても親近感を覚えて、個人的には好きでした。
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