おさかなはフィッシュ

カビリアの夜のおさかなはフィッシュのレビュー・感想・評価

カビリアの夜(1957年製作の映画)
3.5
ファーストショット。
野原を駆けるカビリアがフレームインし、男に抱きつきクルクル回ったかと思えば、今度は手に持ったバッグをぐるんぐるんと振り回して川まで走る、そして突如川に突き落とされ、男はバッグを奪い逃走する。
ここまであっという間のワンシーンで、見ている方は呆気にとられる。
ぜんまいばね仕掛けのミニカーのように一度弾き出されると止まらない運動、そのエネルギーがまず彼女を特徴づける。

弾き出された身体は外へと軌道を描き、その先で他者に委ねられる。
川から救出された彼女は、生死を確かめようと、両足首をつかまれ、逆さにされて揺さぶられる。自らの身を相手の預かるところとする。
それは娼婦という彼女の職業によるものであるほか、彼女が本来的に有する生き方の態度である。同じ展開が二度繰り返されるオチをつける、男を信じそのたびに騙される様は愚かとも言えるが、そこには同時に純粋さという美徳がある。
ショーの舞台に上がらされ、催眠術をかけられるカビリア。衆目に晒される中、おとなしく目を瞑り、見えない青年オスカーを相手に一人ロマンチックなショーを繰り広げる。文字の通り、その身をなげうつ献身がなされる。
手品師の誘導に従いショーは進むが、やがて自ら「愛してるって本当?」「本気と誓える?」とつぶやき出す。奥から顔を覗かせる弱さ。
“メリー・ウィドウ・ワルツ”の流れる中、野次を飛ばしていた観客もいつの間にか静まっている。人間の持つ本性が美しさを伴って浮かび上がる、まるで秘蹟のようなシーン。

止まることのない彼女の運動は、一見、生活を変えることにその方向が定められているように思われる。
仲間と訪れた教会では、「力を貸してください」と涙ながらに祈りを捧げる。だが、祈りはそう簡単に成就するものではなく、その後すぐに悪態をつく有様である。
一方、祈っても何も変わらないと通りすがりの修道士にこぼしたとき、「やり方を知らないか、頼むことがないかだ」と告げられる……。
小さく誇り高い魂は、実のところ自分のために多くを望まないのである。
ことあるごとに言い及ばれる住宅ローンは、か弱くもたくましい、一生活者としての矜持の象徴だ。

ラストシーン。
新たな人生への期待むなしく、男に騙され失意の中とぼとぼと、森を抜けて道路を歩く。
そこへ、フェリーニの祝祭が到来する。
自転車を二人乗りする若い恋人たち。音楽を奏で、歌を歌いながら歩く人々。
「こんばんは」と挨拶をされ、微笑んでそれに応える。ほんのささやかな通交にさえ、幸福は宿る。カメラに向けられた顔には化粧が落ちたのか、道化師の黒い涙。
他者との間に通路を渡す外向きの運動。彼女にとっては不本意だろうが他者と関係を結ぶ、その職業にもよるものだろう。お世辞にも長いとは言えない手足を外へとばたつかせ、多くの場面では懸命ながらも滑稽な身振りとして、ときにチャーミングなダンスとなってそれは表れる。道化師のように哀しく、しかしおかしく、どこまでも他者のためにその身を捧げてしまう善良な性。それが彼女を動かす魂だ。
立ち上がりまた進むその先に、願わくば幸あらんことを。



メモ
娼婦性/処女性については、澁澤龍彦が何か書いていたなと思ったら、「ヴィーナス、処女にして娼婦」(『西欧芸術論集成 (下)』に収録) があった。
(カビリアの本名は“マリア”。)



俳優の車に乗せられるシーン。
車がカーブすると、遠心力のままに身体が大きく傾き、カビリアはフレームアウトする。主役なのにもかかわらず、画面から消えてしまう。
純粋さをそのまま写し取ったみたいで心に響いた。
こんなふうに何気ない映像で語れるのってすごいな。



『ゴダールの映画史』に登場。
適当に選んで観てみたけれど、思った以上に感動した。