湯呑

偶然と想像の湯呑のレビュー・感想・評価

偶然と想像(2021年製作の映画)
5.0
何という素晴らしさ…一見すると非常に芝居がかった、わざとらしささえ感じる登場人物たちの言葉のひとつひとつが、胸に沁み通り、心に豊かな感情が満ち溢れていく。可笑しさや哀しさ、美しさや恐ろしさ、その全てをこのささやなか物語から受け取った私たちは、映画が終わり明るくなった映画館の中で帰り支度を始めながら、そっと周囲に眼をやり、今この瞬間、「偶然」にも同じ場所に居合わせ、奇跡の様な時間を共に過ごした人々に愛しさを覚える筈だ。映画が終わった瞬間、すぐにでも誰かとその内容について語り合いたくなる、そんな作品が時に存在するが、『偶然と想像』は間違いなくそうしたものののひとつである。まあ、私にはそんな相手がいないのでこんなとこでシコシコ感想を書いているのだが…
ところで、映画における偶然とはいったい何なのだろうか。例えば、現実世界で私と友人が街中でばったり出会ったとする。その出会いは偶然に生じたものの様に思えるが、私は私で、友人は友人で街に出かける理由があったのだから、そこには幾ばくかの必然性が含まれてもいる筈だ。しかし、私は友人が街に来た理由を知らないし、友人も私が街に来た理由を知らない。だから2人の出会いが偶然に思えるのである。その意味で、偶然とは誰かの必然と誰かの必然が交錯する瞬間に立ち現れると言っていい。
だが、劇映画というのはまずシナリオというものが先に存在する訳で、いくら偶然の出会いが劇中で描かれていても、それは作劇上の必要から用意されたものの筈である。従って、映画の中の偶然性とはメタレベルでの必然性に囚われている筈だ。しょせんは作り物だから当たり前と言えば当たり前の話なのだが、それでは全てが作り物の世界で決して作為的には生じ得ない偶然(作為的であった時点でそれは偶然とは言えない)を描く、という困難を作家たちはどの様に乗り越えているのか。
例えば、観客が身近に感じる様な、誰しも共感しやすいエピソードを挿入する事。大袈裟な台詞回しを控え、できるだけ日常の話し言葉に近づける事。本当らしさを補強する為、現実にある固有名詞を用意するのもいい。要するに、映画を映画の外に存在する「現実」に似せる事で、「作り物」らしさを払しょくしようとするのが、映画作家たちの常識的な戦略だろう。しかし、濱口竜介は映画の「作り物」らしさをむしろ強調し、暴き立てる事によって逆説的なリアリティを獲得しようとする。彼が求めるのは映画の外にある「現実」の模倣としての「リアル」ではなく、映画の中にだけ存在する「リアル」なのだ。例えば、濱口はラジオ番組に出演した際に次の様に述べている。

「…セリフというのは、俳優が言いなれない言葉をいうことですし、そもそも話し言葉ではない」

『偶然と想像』を観た人なら、俳優たちの台詞回しが、例えばTVドラマなどでよく見かける「自然体」の演技とは全く異なっていた事に気づく筈だ。それはほとんど棒読みに近い、感情を廃した話し方で、前作『ドライブ・マイ・カー』で描かれた本読みの場面を想起させもする。俳優兼演出家でもあった主人公の家福が俳優たちに課した、「ただ“無感情”で何度も本読みをする」という作業を、『偶然と想像』の濱口竜介はそのまま実践しているのだ。その効果について、濱口は「そうして“言える身体”になっておくと現場で反応がしやすくなり、その時に出てくるニュアンスを決定できる」と、些か難解に説明しているが、ざっくり言えば映画の中の俳優たちは「作り物」を「現実」に似せるのではなく、「作り物」がそのまま「現実」になる瞬間を用意する為に存在する、という事だろう。
「作り物」である筈の映画の中の登場人物たちが「現実」の存在へと変貌する―それは「演じる事」がそのまま「生きる事」へ繋がっていく事に他ならない。その様な視点から見れば、本作に収められた物語が何らかのかたちで「演じる事」をテーマにしている事がはっきりしてくる。例えば第1話「魔法(よりもっと不確か)」において、芽衣子は友人のつぐみが想いを寄せる男性が、自分の元恋人である事を知り、彼に対する未練をつぐみの前で打ち明けるか、あるいはその想いを隠したまま、いい友人を演じ続けるかの二者択一を迫られる。映画は、それぞれの行動によって引き起こされる顛末を芽衣子の「想像」というかたちで、並列して描き分け、この繰り返しはホン・サンスの『正しい日 間違えた日』を思わせるのだが、彼女が最終的に選び取ったのが「演じる事」であり、また自分らしく「生きる事」でもあった点に注目すべきだろう。同様に、第2話「扉は開けたままで」の奈緒も、第3話「もう⼀度」の夏子と「あや」も、本来の自分とは異なる人物を演じる事で、失っていた本当の自分を取り戻していくのである。「演じているわたし」と「本当のわたし」は対立する存在ではない。演じるとは、「わたし」の外に異なる自分を作り、そこから自分自身を見つめ直す様な作業なのだ。人は、その様な迂遠な過程を通じてしか自己を発見する事ができない。
私たちの日常において、「芝居」や「演じる事」は「嘘」や「騙す」というネガティブなイメージで捉えられがちだ。また映画や演劇においても、できるだけ芝居くささやわざとらしさを廃した自然な演技が求められ、それこそが「リアル」だと思われているふしがある。その様な観点から見れば、『偶然と想像』は極めてわざとらしい、嘘くさい物語に映るだろう。だが、フィクションが現実の模倣をやめ、自らリアリティを立ち上らせる事があるのだし、そうした物語だけが私たちを真の意味で勇気づけてくれる筈だ。
湯呑

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