青山祐介

女と男のいる舗道の青山祐介のレビュー・感想・評価

女と男のいる舗道(1962年製作の映画)
4.3
『(アンナ・カリーナは)あとでカンカンに怒っていました。わざと醜く撮られたと、思ったからです…この映画をつくることによって、私が彼女にきわめて大きな打撃を与えたと思ったからです。そしてそれから、われわれの破局の発端になりました。』
ジャン=リュック・ゴダール<ゴダールの映画史>

ジャン=リュック・ゴダール「女と男のいる舗道」1962年 フランス映画
原題:「自らの生を生きる ― 十二のエピソード(VIVRE SAVIL - FILM EN DOUZE TABLEAUX) -Marcel Sacotte<売春婦のいる場所>より」

ロベール・ブレッソンは「女優」ではなく「モデル」をつかう。「女優」は「見せかけ」の演技者であり、「モデル」は、自分の存在そのものを表現して、隠れた本質を露わにする。「モデル」の存在は「心理現象」ではなく、むしろ「物理現象」に近い。
ゴダールはあくまでも女優を女優と見做し、女と男の関係を持つ。それは「女優を売春婦、自分をお客とみなす」ことによってである。その関係性によって映像は「容赦ない現実性」を提示することができる。ゴダールは「カトリシズム抜き」のブレッソンだと言われているが、二人の違いは、この「女優」と「モデル」への関係性の相違にある。それを除けば、ブレッソンとゴダールは同じ仕事をしている。
スーザン・ソンタグが、この作品の「唯一の失敗」は、自分の妻である若い女優アンナ・カリーナとの関係性を(映画とは無関係であるにもかかわらず)暗示したことにある、と言っているが、むしろ逆に(女と男=女優と演出家)の関係はゴダールをゴダールたらしめている魅力のひとつなのではなかろうか。
ゴダールはブレッソンの知的精神性を受け継いでいるが、それにもましてカール・ドライヤーの影響を強く感じる。第Ⅲエピソードに、サイレント映画の最高傑作であるドライヤーの「裁かるるジャンヌ」を観て涙を流す「ナナ」のシーンがある。ブレッソンには「ジャンヌ・ダルク裁判」がある。その「モデル-ジャンヌ」とドライヤーの「聖女-ジャンヌ」、それに、ゴダールの「娼婦-ナナ」を、ここではあえて「ジャンヌ」と名付けたい。この「三人のジャンヌ」の違いが、それぞれの映画の特徴だけでなく「本質」をあらわしている。この女優と演出家の関係は新しい映画を予感させる。それゆえにゴダールの映画はサイレントに回帰しようとする。途中で切りとられるミシェル・ルグランの音楽は、サイレント映画とルネ・ファルコネッティのオマージュかもしれない。
<聖女>ジャンヌはサイレントであるがゆえに豊潤であり、<娼婦>ナナはサイレントに回帰する(クローズ・アップの手法がそれを現している)ことで、あからさまな現実性を「容赦なく」暴き立てる。それにくらべて<モデル>ジャンヌはサイレントになり得なかったことで、モデルと演出家との関係が薄れ、ジャンヌのもつ輝きが失せてしまった。サイレントとトーキー、沈黙と言語。女優は沈黙と言語の間をゆれる存在になり、その関係が、女と男、女優と演出家の、人生(舗道)において遭遇した一度限りの危うい関係として、まったく新しい映画を成立させるのである。
 引用されたドライヤーの映画の場面を振り返ってみよう。この映画ではブリス・パランがその役にあたるのであろうか、修道士ジャン・マシュー(アントナン・アルトーの顔がすばらしい)がジャンヌに告げる、「あなたの死を告げに来ました」―「私の殉教です」―「そこに救済はあるのですか?」―ジャンヌは答える「死です!」― ナナもこのようにして、ゴダールと別れ、死んでゆくのである。
青山祐介

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