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わたしの家のdm10foreverのレビュー・感想・評価

わたしの家(2016年製作の映画)
3.5
【道】

母92歳、娘72歳。
ともに人生の道程において「晩秋」を迎えつつある二人。
今も独りで自宅に暮らす母ゴティエと、その身を案じつつも自分の体調に不安を感じている娘エディスは母よりも先に「終の棲家」の選択をする・・・。

この物語は、今後人事ではなくなる新たな形の「老老介護」がメインテーマとなっている。
今まで「老老介護」と言えば、子供たちのような若い世代に世話を看てもらうのではなく、高齢の夫婦がお互いを助け合いながら生活をするという印象が強かったが、どんどんと高齢化が進む世界の中で、親が長生きをすればその分子供も年老いていくという、極めて現実的な問題に目を向けた作品といえる。

母は愛着のある我が家での生活をいつまでも続けていたい。
それは自分と夫と娘との沢山の思い出の詰まった愛すべき家。
彼女は家にいる時はとりあえず身の回りのことは自分で出来ている。
しかし、一歩外に出ると娘の年齢を忘れてしまっていたり、コートの下にブラウスを着ることを忘れていたりと、既に認知症が始まっていることを匂わせる。

つまり、客観的に見ればそのまま独りで生活させるには心配な状態。
でも、ずっと独りで生きてきたという自負や過去に商売をやっていた(人をたくさん雇っていた)というプライドもあって「老人」と扱われることを拒んでいた。

パッと見ると、この物語は母ゴティエの目線で描かれているが、ちょっと俯瞰してみると娘エディスの目線で観ることもできる。

既に92歳という高齢の母が独りで暮らしている事自体もかなり心配ではあるが、当の本人も健康面に不安があり、今後自分だけで母の面倒を看ていくことには限界がある。
もしかしたら自分が先に倒れてしまう事だって十分現実的な年齢になってきているのだ。
しかし、いくら認知症とはいえ、プライドの高い母を老人施設に独りで入れるという事は、きっと母は納得しないだろうし、自分自身も「介護放棄」になるのではないか・・・と考えたのだと思う。

そうやって導き出した答えが「母と一緒に介護施設に入る」という選択。

一緒に暮らしながらも健康面についてはきちんとした管理を受けることが出来る。
恐らく、エディスにとってはこれしかないという解決策だったのかもしれない。
そして、母を納得させるために、まずは自分が先に入居し「一緒に暮らそう」と提案したのではないだろうか。



ラストで、ディナーを一緒にしようと約束をする二人。
先に一人で家に帰ったゴティエは、なんら戸惑うこともなく食器の準備を始めておもむろに煙草を燻らせる。
それはおおよそ認知症の老人には見えないくらいにちゃんとした行動。

でも、認知症ってそうなんだよね。
全部完全に理解できなくなるっていう状態はかなり末期で、殆どのケースでは6~7割の日常生活は体が覚えているから案外普通に出来てしまう。
それがあるから本人も認めたがらない。

だからこそ、それ以上進行する前に手を打つことが大事になる。
これはフランスの医療制度における「自助」の考え方も影響しているのかもしれません。

「老老介護」というセンシティブなテーマと、親子にしかわからない「プライド」という壁の取り払い方を両立させて一つの物語として成立させていたと思います。

映像も落ち着いていて、終始物静かな作品。

最後に一人で煙草を燻らせながら物思いに耽るゴティエは何を思ったのだろうか・・・。
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