悪しき名ばかりの伝統主義にクソを喰らわせるためにはどんな手を使ってでも伝統の中で成り上がるのだ、という至極真っ当で現代的なフェミニズム映画。他方、復讐の方法は「やられたら力でやり返せ」という原始的なところに映画的パワーが溢れてる。
まず、キリスト教の歴史に詳しくなくてもノリでわかるように作られていて、エンタメとして広く届けようという強かさを感じる。お勉強ではない、ジャンル映画だ!と腹を括って強調している。
例えば、
キリスト登場シーンがずっとマヌケで、
この映画のスタンスを一発で示されてることは
知識がなくても感じ取れる。
だから、ベネデッタの口から出たフィクションや自己暗示の可能性も(ふつう実写映画で夢の中が出てきたら本当に見た夢ということだが、今回ばかりは)ある、という描き方が成立してる。面白い。
夢と現実の頻繁な往復には「飽きさせない」という効果もある。
キリストかと思ったらキリストじゃなかった!
のチャンバラシーンだけグロいのなどは技巧派のテンポだ。
好みや方向性の問題だが唯一気になったのは、限りなくレイプに近い拷問のシーンで拷問ポルノとして消費されうる撮り方をしているところ。女性映画、フェミニズム映画では、そうやって消費されないような画角で事実だけを提示する方法が育ってきたはずの10年間ではなかったか。いや、もちろんポール・ヴァーボーベンはそんな批判は百も承知だろう。いつでも世間のモラルを飛び越えた法外でフェミニズム映画を作ってきた人だ。ポルノ消費ではなく、罪悪感を観客にも同時に背負わせる効果も確かにある、とは思う。
しかしやはり、同じヌードでも拷問シーンと和姦シーンは違う撮り方であってほしいと思うのであった。なんなら、むしろ和姦シーンの方が布で隠れてる!
バルトロメアに同情しすぎな感想だろうか。
どうだろう?
カリスマは空虚だ。
ベネデッタがどこまで信仰心があったのか、
バルトロメアとの恋心はどこまで真なのか、
これだけわからない主人公が話を推進できるのが映画だ。
そして意外と、最も胸のすくシーンはラストの大騒ぎではなく、さらにその後のテロップだ。
ベネデッタ自身は最初のマリア像の時から乳首に執着し続けていて、自身の性器の開発というか覚醒は全面的にベネデッタに委ねてるのも面白い。