うべどうろ

理大囲城のうべどうろのレビュー・感想・評価

理大囲城(2020年製作の映画)
4.0
 凄まじいものを観た。この作品は本来、「映像」としての存在価値を確保され、「記録」としての評価、あるいは「告発」としての正当性を受け止めるべきなのだと思う。この種の作品を評価するということは、おそらく避けるべき行為だと思うのだけれども、その自戒を越えて、この作品は紛れもない「映画」としての完成度を帯びていた。
 最初の方、僕はこれは「とてつもない記録映像」の蓄積だと思って観てた。当時「ニュース」として、あるいは断片的な「映像」として目に触れていた「現実」をまざまざと見せつけてくる、いわゆる「力のあるドキュメント(記録)」なのだと思って観たということだ。そのマイナス面の理由は、「説明のない」こと。それは当然世界中が周知と思う監督たちの意図なのだと思うし、記録映像としての性質を強める演出なのだとも思うけれど、唐突に私たち観客は2019年の11月に、それも香港という広域性をかなぐり捨てた「理大内部」へと放り込まれてしまう。だからこそ、これは「記録の蓄積」だと思ったのだ。それを見せるための作品であると。
 その「記録映像」として、僕がつい涙をこぼした瞬間がある。それは、三回目の包囲突破を試みるシーン。「助けて」と叫ぶ男性を、誰も(正確には一人は試みる)助けない。警察も、男性の確保だけに手を焼いて、他の者が傍観することを止めようとはしない。そこに、一つの境界線がある。
 そして、その境界線を見つめる紛れもないカットが一つある。その男性の後、数名が警察に確保されるのだけれど、とある女性が名前とIDを叫んだのちに防毒マスクを外される。その瞬間、防毒マスクが彼女の顔を擦過した刹那、彼女は目を見開いた。その目は、どこか一点を見つめているような悍ましさがあって、「恐怖」とも「諦め」とも「絶望」とも取れる、あの瞬間にしか存在しえない「光の没収」が記録されている。そこに僕は吸い込まれてしまった。完璧な記録が、この世に映像として残った、ありがとう、と本心から強く涙した。その一瞬が、作品の「告発」を担ったような気がしたのだった。
 そこから、少し「記録」が続く。上記のカットで満足してしまった僕は、途中少し物足りなさも感じていたのだが、作品終盤、理大から全員で出ていこうとするシーン、この作品は「記録」から「人間ドラマ」へと変化してしまう!なんという構成!「事実は小説より奇なり」という言葉をそのまま具現化したような流れではないか。
 彼ら、彼女たちは、ひどく迷う。出ていくべきか、抵抗するべきか。その背後には、「生死」への不安を根幹として、警察や大人への不審、仲間への友情、そして自分が信じてきたはずの「信念」の揺らぎがあった。その全てに揺さぶられる未成年の感情は、激しく衝突し、闇夜のなかに烈火の如くほとばしる。何が正解かわからない。何が裏切りなのかわからない。でも彼ら・彼女らには、一つだけ確かな想いがあった。「家に帰りたい」。なんという事実。。。この一つの感情が、彼らを生死の淵に追いやって、20年ほどの人生で最大の選択を迫っているのかと思うと、もう涙が止まらないわけで。あのとき、「ニュース」として知った気になっていた自分にビンタをしてもしきれないという現実面での反省と、この作品が紛れもない「映画」として結実していることへの畏怖が押し寄せる。それはまさしく「事実」の強さであって、これこそドキュメンタリー映画の真骨頂ではないか。
 そしてこの「家に帰りたい」という想いこそ、実は彼らの主張そのものなのではないかと思う。「香港」という土地は、果たして彼らの「家」なのだろうか、という問い。「中国」という家の別荘に過ぎないのかという疑問。なんとなく、そんなメッセージまで匂ってくるような気がするのであった。
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