【虚構から現実への応援映画】
ずっと気にはなっていたが、不評を目にすることも多くスルーしていた本作。
予告編の「やっぱオスかよ!」と少女が叫ぶセリフもなんだかサムくて見なくてもいいような気もしていた。
しかしいざ見てみると思いの外の傑作だった。評判や売り上げ、予告編で作品を判断してはいけないことを痛感した次第だった。
また、評判が良くないものや売れなかったものと出会えた時の喜びを知ることもできた。世間とは合わなくても自分とは合う。そんな作品ってもしかしたら一番自分にとって大切な映画なのかもと思ったりもした。
正直、この歳でここまでアニメ映画に感動させられるとは思ってませんでしたね。
簡単な粗筋としては、
製鉄所の爆発事故により時が止まった町が舞台の今作。そこでは再び時間が動き出すときに備えて、変化や心を動かすことが禁じられていた。そんな世界で退屈な日々を送る少年・正宗は、ある日謎めいた同級生・睦美に導かれ、製鉄所に足を踏み入れる。そこで正宗は狼のような少女と出会う。そして、この世界の真実を知ることとなっていく・・・というもの。
正直、理路整然たる物語を求める人には向かない作品だと思う。予想だにしないストーリー展開で、理屈を捏ねていたらついていけないだろう。哲学や宗教、心理学の要素もふんだんに詰まっていて難解。抽象度の高いセリフや情報過多な世界観も決して易しいものではなかった。
特に映画前半は、何考えているか分からないキャラと理解不能な世界観に翻弄された。主人公もヒロインもなんか気持ち悪いし好きになれないタイプだった。
でも後半になるにつれて諸々の謎が明らかになる様は引き込まれた。ミステリー映画としても見応え抜群で、めくるめく展開には目覚ましいものがあった。おそかく細かいところまで注意して見ると、色んな発見がある映画なんだと思う。
また、分かりにくいとはいえ、モノローグを使い、登場人物の感情は言葉として紡がれるので、ちゃんと感動はできるようになっていた。そこは「鬼滅の刃」や「天気の子」のような流行りの映画に習ったのだろうか、すごく現代ぽさをかんじるところだった。
このキャラが己の感情や思考に気づき吐露していく手法は、分かり易くて万人が感動できるのが最大の利点だろう。でもその一方で下品に映ってしまうことで作品の価値を著しく下げるリスクもあると僕は思っている。
でも、今作はそのリスクを見事に避けて通っていると感じた。素晴らしい感動アニメになっていた。僕はその理由に今作におけるテーマが関わっていると考える。
今作のテーマは一言でいうと「感情の解放」だろう。感情を持っていること、感情を表現できること、感情を選べること、そのことに気づくまでの主人公の過程と結実が今作の大きな流れだ。感情の抑制からの解放。そんなテーマが故に最後のキャラの心情語りもそこまて気にならないんだと思う。
また、今作が取り上げている主題的な感情は恋愛感情に当たる。でも一般的な恋愛映画におけるキラキラした側面は少なく、しつこい程に恋愛に伴う"痛み"にフォーカスした作品になっていると言えると思う。
胸の痛みをスイートペインと表現して嬉しそうにする子、片思いに苦しみ好きなのに大嫌いになってしまう子、好きな気持ちを見せ物にされ痛みに耐えきれず消えてしまう子・・・。
この各々の痛みとの向き合い方には個性が出る。それは側から見ていると笑えたり痛々しく感じたりもするが、映画を見終わった今となっては至極美しいものにも感じてしまうのが面白いところだろう。観客の感覚に変化を与えたる物語としての重みがあると言えると思う。
大まかなストーリー展開としては、「好きとは?」から出発し、恋愛感情に伴う痛みを描き、「生きるとは?」に終着する。
恋愛要素と哲学要素を取り入れて、その架け橋として痛みを機能させたのが、美しいストーリーラインだなと思った。
痛みとは、心が動いてる証拠であり、生きてる証拠なんだと。
堂本剛の名曲「街」にこんな歌詞がある。
「傷ついたりもするんだけど、痛みまでも見失いたくない」
この歌詞には、痛みの肯定ひいては自己肯定の意味合いが込められていると、僕は思う。
人は生きていく中でなかなか傷つくことは避けられない。負った傷は深くて治らないこともあると思う。でも、傷を負った分、人の気持ちも分かるだろし人に優しくできるんだと思う。
また、人は痛みを感じることで生を実感できる生き物なのかもしれない。痛みを拒絶するのではなく受け入れることが生きるってことなのかもしれない。痛みを味わってみると、それはスイートペインになるのかもしれない。
もしかしたら痛みを感じないことが一番辛いことなのかもしれない。なぜならそこには感情の動きが生じないから。人は感情を動かすことで生を感じることができる生き物だから。
この映画は感情を解放して生きていくことの意義を説いているように僕は感じた。生きるとは楽しくてドキドキするように感情が動くことだし、本来人は笑ったり泣いたりして感情を解放することができる。自分で感情や思考を選択することもできる。僕らはもっと自由に生きることができる。
そんなことを教えてくれる、現実を生きる我々を鼓舞してくれる素敵な映画でした。
そして、そんな我々を鼓舞してくれる"虚構"という存在についても考えさせられる作品でした。
ここからは、ネタバレを含みます。
製鉄所の爆発事故により世界に閉じ込められた人々は、最初は神を怒らせたことによる罪によるものだと思っていたが、真実は違い、彼らは非現実空間にいて死んだも同然の状態だった・・・。
この現実と非現実の二項対立はいろんな言い方ができるだろう。特に非現実は、虚構、幻、想像世界、空想世界、フィクション、アンリアルなど多くの類義語が存在すると思う。どれも微妙に意味合いは異なるだろう。でもここからは"虚構"という言い方で語っていきたいと思う。
今作を一言で表すなら『虚構に迷い込ん少女を現実に帰す話』だろう。
この話をするには、そして今作を理解するには、現実世界と虚構世界を時系列で把握しようとするのではなく、別個のパラレルワールドとして捉えた方が理解しやすいと僕は思う。
五美は虚構の世界に囚われた少女であり、現実の世界に戻るのが怖いと感じていた。なぜなら虚構の世界ではお父さんとイチャついたり、子供のままでいることができるからだ。挫折や痛みもないないからだ。だから五美は頑なに現実の世界に帰るのを拒んだ。
虚構にいつまでもいるのではなく現実を生きなさいというメッセージ自体は「エヴァンゲリオン」とも通じるとこだろう。アニメという虚構の世界にいつまでもどっぷりハマってないで早く現実を見なさいという庵野監督のオタクへの手厳しいメッセージがかなり刺さる自分からすると、今作も胸抉られるものだった。でも不思議と嫌な感じではなく、優しい気持ちになれるのが今作の凄いところだろう。
また、睦美が五美と距離を置いていた理由は、近づいたら好きになってしまうからというものだったが、それも現実と虚構の関係性ひいては虚構の持つ"力"で説明できるんだと思う。
虚構の存在としての睦美、現実の存在としての五美は、本来同じ世界にいることはない者同士である。同じ世界にいてはいけない者同士である。そこには一種の危険性を孕んでいる。それは現実が虚構に侵されてしまう危険性である。睦美が五美を好きになってしまうことは、虚構が現実を侵すことと隣り合わせなのだ。それを睦美は悟っていた。だから近づかなかった、のだと僕は推察した。
じゃあ虚構が現実に侵食することの、何が危険なのか?
それは統合失調症などの精神疾患の症状において説明できると思う。現実と虚構の境目がわからなくなり、幻覚や幻聴に苛まれ、ありもしない話をしたりする。それは一人の人間の精神の崩壊ひいては世界の崩壊とも言えないだろうか。
しかし現代、虚構とは切っても切り離せないような日常を我々は送っている。虚構とは映画、本、ゲームなどの世界の事も指すだろう。そしてその類に人生の時間を費やし、現実を生きようとしない人も一定数いるだろう。いや、現実を生きていたとしても、虚構からの影響は少なからず受けて生きている、そんな人が大半ではないだろうか。
しかし、この映画は徹底して現実と虚構の境界を守り抜こうとしている点が面白いところだった。
だからこの映画はこうも言い表すことができると思う。『現実と虚構の境界を取り戻すラブストーリー』だと。
最後の展開は、この世界を維持するためにヒビを塞ごうとする人々と、ヒビが塞がる前に五美を現実世界に帰そうする人々、の両者の行動がアクションムービー風に描かれる。ここらへんの展開は正直どう話を結実させてくるのか全く分からずに、終始ハラハラドキドキしたし、目が離せなかった。
個人的にはヒビが広がり割れてしまい現実と虚構の境界がなくなった世界を見てみたかった気もした。現実に対する虚構の影響は大きく、負の側面もあるが、現実と虚構が手を取り合うような結末も見てみたかった気がした。
最後に、総じて良い映画だったが、少しだけ気になったところを。
駆け足で進んだ感じは正直否めなかったかな。もうちょっと丁寧に描いて欲しかったのが本音なところ。あと15分くらい尺を伸ばしても良かったと思う。なんなら10話に分けてアニメシリーズにして「必ず泣ける」などとキャッチフレーズを押し出した方が話題になっただろうしヒットもしたように感じる。
でも一方で、この詰め込み感がスピーディな展開に繋がっているとも言えるし、映画本編だけで収まらないシーン「余白」を想像させて考えさせることで、今作のような濃厚な余韻を残すに至ったとも言えるだろう。
消化不良と言う人もいるだろうが、そこは自己消化で補おう。自分の知識や思考をフル活用して、それが正しいか間違っているかは置いといて、自由に自分のものさしで想像して語っていい映画だと思う。
<追記>
パラレルワールド側に主人公を置いたのが斬新で面白い点。
<セリフ>
「なんとなく俺らの遊びは、痛いこととか苦しいことをわざわざ選んでる」
→痛みや苦しみが生きてることを実感させてくれる
「定期的に以前の自分と変わっていないか指差し確認。少しでも変わっているところは、正すように心がけましょう」
→”変化を望むもの”と”変化を望まないもの”の二項対立
「退屈をごまかす遊びしてきたよね。逃げたい気持ち、ごまかす遊び」
→現実を真実を見ないための”遊び”
「生きながらえたければ、心を動かさないこと。彼女の心には亀裂が入るような出来事があったのかもしれない。りらーっくす。私たちは運命共同体です。同じ世界で同じ苦痛を味わっている。だからこそこの世界から逃れようなどとゆめゆめ考えてはならないのです」
→宗教的?
変化を望むものにとっては最悪な考え方
「俺の好きって気持ちは、大っ嫌いって気持ちとすごく似てて、なんか痛くって」
→表裏一体の好きと嫌い
好きは痛い
「どうして動いちゃダメなんだ?」
「もっともっと見る!」
「もっともっともっともっと」
→知的好奇心、本能
「我々があなたに従っていたのは、あまりにこの世界に取っかかりがなく不安だったから」
「終わる世界をあざむくルールなんて必要ですか?」
「どうせ終わっちまうんだ。好きにやろうぜ」
「俺たちの遊びは痛いことを選んでいた。それは痛みをあまり感じなかったから」
→痛みを感じたい
→痛みが好き
→生きていて生じる痛みを肯定する映画
「痛いけどなんていうかスイートペイン」
「痛くてうれしいんだよ」
→痛みを好んで受け入れる
「生きてないから臭くないの」
「俺五美と一緒にいて、モヤモヤしていたことの答えをもらった気がした。全てまん丸な目で見るようにして、全てに強く心を動かして、生きるってこういうことなんだって、五美を見て思った。でもその先はお前が教えてくれた。お前を見てたらイライラしてお前が話してるの気になってムカついたり、でもなんかドキドキしたり、五美だけじゃない、俺だってちゃんとここに生きてるんだって。お前といると強く思えるんだ」
→
「希望とは目覚めているものが見る夢」
→アリストテレスの言葉
「この異常な世界だって人はいくらでも変われる」
→自分の現状を環境のせいにしない、自分次第という、自分の世界を自分で作る、コントロール
「嬉しかったんだ。上手くなるのも褒められるのも。未来に繋がらなくたって構わないんだ。楽しくてドキドキして俺はここで生きてるんだって」
→生きるとは、楽しくてドキドキするように感情が動くこと
「好きって気持ち、いたいはいたいだけど意味が違った。好きはあしたもあさってもおばあさんになってもいたい、その人と一緒にいたいって気持ちだよ」
→好きとは?
「そうか、そうなんだ。俺たちは笑うことも泣くこともできる。この世界でだって本当はいくらでも自由になれたんだ。だけど現実の俺たちの違った」
→幻、想像、非現実からの「自由と感情解放」のメッセージ映画
「近づき過ぎちゃダメだって思った。近づいたらきっと好きになってしまう」
→虚構と現実の対比
夢や空想が現実に近づきたくなるけど、一緒になるのは危険
だから距離を離す
「ねえ五美。トンネルの先には、お盆だけじゃない、いろんなことが待ってるよ。楽しい苦しい悲しい。強く激しく気持ちが動くようなこと。友度たちができるよ、夢もできる。挫折するかもしれないね。でも落ち込んで転がってたらまた新しい夢ができるかもしれない」
→
母から娘のへのメッセージであると同時に、
本当のところは、極めて抽象度の高い、虚構から現実に対するメッセージ