せいか

ブレードランナー ファイナル・カットのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

(※2021/07/06追記:2021/07/04にブログに清書したレビューを投稿しました https://to-the-kind-reader.hatenablog.jp/entry/2021/07/04/120711)

(感想雑多自分用メモ書き)

円盤開始直後の目次。
・オリジナル劇場版『ブレードランナー』
・インターナショナル劇場版以下略
・ディレクターズカット/以下略最終版
なんかいろいろあるのは知ってたけど、ここにいたってまだ選ばされるのかよなんであった。おめーよーおめーーーよーーーー!
どうでもよいわ!と思うので、取りあえず最後のにしとく。今まで避けてきたのそういうとこやぞ。
閑話休題。そんなこんなで試聴を始める。

最初のあらすじからだいぶもう原作とは別物の気配はある。地球上の景色とかもなんとなくたまに見かけたスクショとかからもなんかだいぶイメージ違うのなと思っていたけど、その辺もやっぱり違うのな。

ほぼ全裸スケルトン雨合羽ウーマンがやたらガラス突き破りながら死ぬところはなぜか知っていた不思議。
この映画、映画館で観れないやつだな。要所要所で、つい、プスーーーっと笑ってしまう。頭突きでバスルームの壁突き破るとかもだし。



とにかく最初から原作のほうが好きだなという感。街並みや人(ないしアンドロイド)の距離感とか、キャラクターの関係性とか。オペラ歌手になって潜り込んでいたアンドロイドの設定も大幅変更のうえに妙な格好で主人公が積極的にチェイスして処理してたのとか、とにかく、私は原作好きだったんだなといちいち気が付く。知的障害を肉体的な障害に変えてたり。原作の持つ存在の曖昧さ、あわいはどこかへ消えてしまっていた。キップルという用語さえ出ないのは驚いた。映画版ロイのラストとも通じてくると思うのだが。

ただ、JFだかが住まいにしていたマンションが映画ではすごく豪勢なものの廃屋になっていたが、原作のイメージを無視すると単純に好みだった。オモチャみたいな人形に囲まれていたりも。フクロウなどの鳥モチーフのチェス盤も物欲が出るくらい素敵だった。

原作ではただのガキ大将的で最後までいけ好かない奴だった(なおかつ、アンドロイド処理に嫌気が差していたデッカードですら、その処理を躊躇わなかった)ロイの改変はやや好感を持つ。自分たちを生み出しておきながら、その創造物が延命を望んでも微塵とも理解を示さず、完璧であるがゆえに短命も仕方ないのだと無責任に扱う創造主を自らの手で殺すところなど(「生物工学の神が呼んでいるぞ」!)、なかなか切ないものがある。このロイに関してはシェリーの『フランケンシュタイン』の亜種のようなものを感じた。
屋上で追い詰めた主人公に「恐怖の連続だろう、それが奴隷の一生だ(Quiet an experience to live in fear, isn′t it?)」「おれは お前ら人間には信じられぬとのを見てきた オリオン座の近くで燃えた宇宙船や──タンホイザー・ゲートのオーロラ そういう思い出もやがて消える 時が来れば──涙のように 雨のように……その時が来た(Time to die.)」と語り、雨に打たれながら死んでいくのもかなり好きだ(英語で書き起こした箇所見れば分かるように、to liveとto dieで意識してんでしょうね)。というか、この作品の良さはこのシーンに詰まっているのだと思う。それだけに、もう少しここに焦点が絞るような内容になっていたら、全体的な印象は違っていただろうなあと残念にも思う。なんだかこのシーンだけ浮いている。
本作では人間がどう、アンドロイドがどうとか、あわいがどうというよりは、奴隷身分のアンドロイドの悲哀とその意思のありように軸があるのかなあとも思いもするが、やはり、もう少しそこに焦点当てられなかったものかと思いもする。

とはいえ、原作と異なり、原作と同じくラスボスのポジションにあったロイとの対峙を通してデッカードの精神のあり方に一矢報いるように改変したのもやや好感。ただ、この映画のデッカードは最初からアンドロイド処理への意欲がなかったり、アンドロイドのレイチェルへの性欲や愛欲の(命令的で主導権を握りきったやや残酷な?)出し方をしていたりと、特殊ではあったのだが。

原作を考えなかったらかなり面白い作品だとは思うが、原作を読まないと多分今以上にフワフワした作品だと感じたと思うので、どないせえいうんやと思いながら鑑賞を終えた。
本当に、原作は少し忘れて一つの作品として観たらかなり面白いSFではあったとは思う。

今回、ディレクターズカット/ブレードランナー最終版を観たが、特典に入っていた各種に対する監督コメントを見ていると、劇場版(および、確認したところ、インターナショナル劇場版も)ではラスト、デッカードとレイチェルは自然豊かな(?!)所で車を飛ばして逃亡成功エンドのようだ。最終版はあくまでもラストは主人公たちが逃げ出そうとして不穏な空気の中でエレベーターに乗って終わるだけであるが、ハッピーエンドではレイチェルは特別扱いで、あれだけロイたちが願っていた延命を何もせぬまま手に入れていたり、俺たちの命の残りなんて誰も知ることではないぜと朗々と語っていたり、こんなん観たら顔からスライディングするわという終わり方をしていた。ついでに、インターナショナル劇場版はグロ要素などを足したもののようである。
ちなみに、この監督コメント曰わく、最終版が一番、監督の意向に近いもののようである(そうだろうとも思う)。ラスト、エレベーター前で主人公はユニコーンの折り紙を拾うのだが、本作では、彼はユニコーンのイメージを見ていたりもしている。これは、監督曰わく、これは、彼自身もレプリカント(アンドロイド)である「可能性を示唆」しているのだとか。ここで原作特有のあわいをもっと直裁に描いていたらしい(それでも原作が目指すそれとは全く違うのだが)。本作では瞳の具合によってアンドロイドを描き分けているのだが、確かにデッカードにもその特徴が出ている箇所はあるので、ユニコーンの意図に気付かずとも、その可能性は分かるようにはなっている(ただやはり、なんだか、だからどうというシナリオとの繋がりは薄味に感じはしたのだが)。「彼女も惜しいですな 短い命とは」には彼のことか彼のみのことを言い含んでいるのだろうか。
なにはともあれ、本作では、デッカードは、原作でそういう可能性も示唆されていた、アンドロイドへの記憶操作によってアンドロイド自身に自分は人間であると思いこませ、同族を自らの手で殺すことも厭わない存在にできるかもしれないという設定が付与されていたのだろう。あくまで、本当にアンドロイドだとしたら。
ロイが最後に落ちそうになっていたデッカードを見下ろして一瞬怪訝な顔をしていたのも、彼の瞳に気付いたからかもしれない。それで、「それが奴隷の一生だ」と語ったのだろう。人間に体よく同族殺しをさせられているのだから(だからなおさら、逃げおおせてハッピーしてるエンド版のズコーッ感はすごいのだが)。本作ではデッカード以外の警察組織が全く手伝うそぶりも見せなかったり、そのへん意識してたんだろうかもしれない。


あと、レイチェルが髪を下ろした時の美しさはすごかった。ものすごい造形美を感じる。

最初から日本や中国的なイメージが溢れていたが、あれは何なんだろうか……。