シシオリシンシ

LAMB/ラムのシシオリシンシのネタバレレビュー・内容・結末

LAMB/ラム(2021年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

不気味で不可思議なビジュアルや予告編の不穏さから不条理ホラーのようなジャンル映画かと思われたが、実際に観てみると高度にデフォルメ化されたヒューマンサスペンス、もっと言うなら2つの家族間の子供をめぐる親権争奪の映画になっていると気付いた。
半人半獣の子供アダ、アダの産みの親である母羊、そして最後のアレ、この者たちを人間に置き換えても話が成立するように作られているが、最後まで観ないとその仕組みに気づけない巧妙な作りをしている。

霧深い山間に住む羊飼いの夫妻、マリアとイングヴァルはあるとき羊の出産時に半人半獣の存在が産み落とされるのを目の当たりにする。マリアはその存在を死んだ娘と同じ名前「アダ」と名付け自分たちの子供として育てる。アダの誕生こそ自分たち夫妻に訪れた奇跡と信じて。

この物語において一番恐い存在なのは主人公の一人であるマリア。彼女は常に、いなくなった娘のいた過去に生きている人だ。死んだ娘をアダに重ね甲斐甲斐しく愛するがそれはいわゆる「母親のエゴ」が先に感じられ、アダそのものをちゃんと見れているか疑問が生じる。
アダの産みの親である母羊がアダを連れ戻すために自宅に来るのに業を煮やし、マリアは猟銃で母羊を殺害してしまう。ミクロな自分だけの幸せを守るためならいくらでも手を汚せる、そんな狂気染みた覚悟を持った人物だ。

いっぽう夫であるイングヴァルは娘を亡くした悲しみを負っているが、悲しみを乗り越えて妻と未来へ生きることを考えている人だった。
だがその未来はアダが誕生したことで手にはいらないものとなってしまう。彼が一人、トラクターの中で流した涙と静かな慟哭は自分の望んだ幸せな未来を諦めるしかないことへの悲痛の念。
しかし彼は妻の幸せのためアダが自分たちの家族であることを努めて演じるようになる。
アダに対する感情も初めは本心で優しく接しているわけではなかっただろうが、物語を追うごとにいつしか本当の愛情のようなものを育むようになる。
故障したトラクターへ向かう道中のイングヴァルとアダは暖かで偽りのない家族の会話をしているように思えた。
偽りの幸せが本当の幸せに昇華する兆しを見せたそのとき、イングヴァルは「ある存在」に猟銃で撃たれる。アダがその「ある存在」に連れ去られようとしたとき、瀕死のイングヴァルがアダの袖を最期の力で握っている、そして遠ざかるイングヴァルを見てアダが本当に悲しそうに彼を見つめていた。このシーンを見ると、この二人の間には本当の親子の絆があったと信じたくてたまらなくなる。

そしてイングヴァルを猟銃で殺しアダを連れ去った最後のアレ=羊の獣人と呼ぶべき姿の存在。
こいつの正体はいくつか解釈が分かれるように作られているが、最初から最後まで観た視点での解釈としては「アダの本当の父親」と結論付けるのが自然だろう。
冒頭、霧の中を歩く者の視点で物語が始まり、いつしか羊舎にたどりつく。この視点の主が羊の獣人で、彼がアダの母羊と交配することでアダが生まれた。
哀れな夫妻に神がもたらしたとされた奇跡は、実は奇跡などではなく単なる自然の摂理であったことを察すると、マリアに対してなんと皮肉で残酷な真実だろうか。

ラストシーン、愛する夫の命も愛する子供の存在も奪われたマリアが佇んでいる。子供を本来の母親から盗り上げ、あまつさえ母親を殺すという罪を犯したマリアは因果応報というかたちで大事なもの全てを失った。これから先、彼女がどのような行動をするのか、あるいはしないのか、観客の手に委ねてエンドロールが流れる。

観賞中は、不穏な演出や雰囲気が映画全体をまとっていて、いつ誰が一線を越えるか(アダを殺す、アダが人を殺す、アダの存在が第三者にバラされる等)分からない緊張感があった。
だが二回目以降観賞するなら、一人の子供をめぐる静謐なヒューマンサスペンスとして落ち着いて作品のテーマを汲み取れると思うので、一粒で二度美味しい多層的な解釈のできる良い映画だと感じた。
シシオリシンシ

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