ペトロニウス

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーのペトロニウスのレビュー・感想・評価

4.5
10歳の娘と見に行ったんですが、いやはや面白かった。娘と、クッパ(Bowser)がピーチ姫への熱愛の歌う熱唱するシーンで、大ウケで爆笑。どうでもいいことですが、バウザー(Bowser)の発音が自分にはサウザーに聞こえて、ずっと北斗の拳の聖帝サウザーを連想して一人含み笑いしていた(←どうでもいい感想)。娘が英語で見たいとせがむので原語版で見たけれども、4DXや3DXで「体感すべき」映画だなって思った。ゲームをしているもしくはテーマパークでのライドに乗っている感覚でした。スーパーマリオのゲームをやったことがある(ない人探す方が難しいかも)であれば誰でも楽しめて、基本は家族で行く、年齢を問わない映画ですね。年齢性別をこれだけ問わないタイプのお話は本当にめずらしい。デートにもファミリーにも、全てにOK。これぞ映画興行だ!。さすがの任天堂。誰と行っても、確実に楽しめる。ヒットしない方がおかしい素晴らしい作品。子供の頃から慣れ親しんで知っているゲームの世界の入り込み、立体空間を縦横無尽に「体感・体験できる」というのは、それだけで価値であり感動だと思います。

個人的には、ピーチ姫が、ノリノリでとても好き。CVは、『クイーンズ・ギャンビット』アニャ・テイラー=ジョイ(ANYA TAYLOR-JOY)ですね。ノリノリで、愛されて育った健康的なかわいさにあふれてる。捨て子というか親がいないでキノコ王国で育てられた設定ですが、それが故に国へ、まわりの人みんなへの愛あふれる様が、かわいい。QGのエリザベス・ハーモン役とかぶって感じてしまい、ちょっと涙目に。(←この見方は、だいぶレアケースだと思いますが(笑))。マリオたちは明らかにニューヨークのイタリア系ですが、ピーチ姫は、何系の顔立ちなんだろう。ちょっと、悪役令嬢っぽいというか、キツめ感じのなのに影が全くない感じが、健康的な魅力になっている。いや、この子、いい子だろ、、、。かなり好き。

批評家受けが悪くて、この作品の評価を話題にする人が多いですが、そういう人は「言葉で語る」意味の呪いにかかっている人だよなって思います。明らかに、これって脚本の意味の一貫性などを問う作品ではなく、「体験の質」を問うべきであって、「ストーリーの意味」を問う時点で、かなり極端な映画の見方をしていると僕は感じます。映画の見方が悪い。これ主人公のマリオの成長物語として意味文脈を読み取ったら、薄いどころか何にもない話になってちゃうじゃないですか。「負け犬であるマリオ兄弟」が、何の努力もしないで異世界でヒーローになりましたっていう、陳腐すぎる瑕疵のある脚本と見るしかなくなる。いや、社会的なルーザーでダメな奴が、異世界に転生して、何もないのにチートで無双、夢想するって、どこかの国の「小説家になろう」サイトとかライトノベルとかマンガやアニメであふれているので、本当はこれこそが人が望んでいることだと僕は思うけど。それで、何が悪いのだ!。でも、その見方は、この作品の本質を何も問うことにならない。批評としては、批評するにレベルの低い視点だと思う。だって、そんなの言っても意味ない視点なんだもん。何にも生産性ない。

これって多分、フランスのリュミエール兄弟の発祥まで遡って問われてきた「映画とはなんなのか?」って本質の話なのかもしれないですね。僕は、映画ってのは、リュミエールの時代から本質的に、見世物小屋のエンターテイメントだと思っていて、面白い体験ができればそれで正しいと思っている。初期は、メリーゴーランドの映像だけで、「高さ視点(人の目線より高い)の違い」「速度(当時は村から出ない人がほとんど移動の自由が少なかった)の違い」のセンスオブワンダーを観客は感じてたわけだから。それで十分だった。そこに、近代的な一貫性の脚本の意味文脈なんか、問わなかったでしょうに。映画を総合芸術として、脚本の一貫性、キャラクターの動機の設定、目的・テーマから演繹的に逆算して、受け手に意図の通りの感興を引き起こせたかの評価をしたがるんですよね。特に批評家とか、文字を職業としている人は。それは、一つの評価の軸ではあると思うけれども、それではこの映画の「面白さ」や「観客が興奮することの本質」に何一つ届かない射程距離の低いものだと思う。

あの音楽とマリオがジャンプしまくるだけで、めちゃくちゃ満足しますよ。僕らは、任天堂ファミコン以来のゲームキッズなんですから。これってゲームをする楽しさと、本質的に同じものなんだろうと思う。
ペトロニウス

ペトロニウス