まぬままおま

マイスモールランドのまぬままおまのレビュー・感想・評価

マイスモールランド(2022年製作の映画)
4.2
川和田恵真監督作品。
川和田監督は「分福」に所属し、是枝裕和さんの監督助手も務めている。そのためか、是枝監督作品のようなマイノリティと家族の連帯がリアリズムに描かれている。
そして何より主演を務めたサーリャ役の嵐莉菜さんの魅力よ。
ここ最近で、最も絵になる俳優だと思う。

本作では、現代日本で彼らがいかにクルド人として生きづらいかが見事に描かれている。
国家を持たないクルド人の現状は理解しがたく、難民申請はことごとく却下される。さらに在留資格は剥奪され、日本の福祉支援制度からも零れ落ち、働かずとも生きろと要請される。
そんな弱いものいじめが国家の名の下で行われ、暴力的な現実が彼らに襲い掛かる。
だが彼らは国家の手をすり抜けて、自らのコミュニティを形成して生きている。屋上で食事を共にして笑いあう日常は、ささやかな喜びであり、彼らが懸命にサバイブしている証左だ。

しかし本作の奥深さは、クルド人がいきる現実をリアリズムに描くことにとどまらない。それは「クルド人」としてくくることで不可視化されること、つまりサーリャのアイデンティティが繊細に描かれていることである。

「同じクルド人」「同じ日本人」ということは、優しいようで残酷な言葉だ。確かに同じあることで、社会的な紐帯ーそんな気難しい言葉を使わず絆といってもいいーができ、お互いを支え合うコミュニティが形成される。しかしそれによって名をもつ一人一人の個人的な想いや歴史が無化されることにもなるのだ。

サーリャはクルド人である。だから食べる前には、宗教的な儀式をするし、同じクルド人の生活の困難さー例えば言語の翻訳やケアーを一手に担おうとする。しかしサーリャは日本で生活する17歳の女の子でもある。だから親や仲間に決められたーそれは宗教性を帯び、家父長的な命令でもあるー男とは結婚なんかしたくないし、そもそも好きとは思わない。同じバイト仲間の聡太に好意を寄せるのは「普通」である。このようにクルド人でありながら、クルド人から抜け出したい複雑な心情をサーリャは抱えているのである。ここにアイデンティティの難しさがある。

この困難さを理解するためにインターセクショナリティー(交差性)という言葉を導入する。私たちのアイデンティティは、単一のもので同定されるものではない。そうではなくジェンダー・セクシュアリティ・宗教・年齢・階級など複数のものが複合的に交差して編み出されている。これは以前から自明なものではなく、最近のアイデンティティ・ポリティクスの研究で現前化され発明された概念である。

まさにサーリャの描き方は、「クルド人である」では言い表せない複雑なアイデンティティを複雑に交差させたままリアリズムに語るものなのである。

それではサーリャを「クルド人」として同じにするのでもなく、アイデンティティを承認/理解するためにはどうすればいいのか。
それはサーリャが聡太にはじめてクルド人であることを打ち明けるシーンに示唆的である。

彼女と彼はバイト終わりに一緒に帰り、川辺で会話をしている。この川辺には埼玉と東京を架橋する橋のコンクリートでできた支柱が二つ並んでいる。そして支柱は映画において対称的な構図で映し出され、同じように二人は並んで座っている。

支柱は一つにはできない。橋が崩れるからだ。支柱に程よい距離があり、かつ同じ支柱であるからこそ橋を支えることができる。
これはサーリャと聡太にも言えることである。二人を同じ日本人としてくくることはできない。けれど会話を通して、互いの複雑に絡み合うアイデンティティを理解しながら、同じ人として認めること、そして同じにできない距離を認めることで二人は分かり合えるのではないだろうか。
支柱は物質ゆえに移動できずそのまま屹立している。だがソーリャは対称性を打ち破り、聡太の側に寄り添うのである。
この精巧な構図と構図を打ち破る二人のドラマに胸を打たれた。

寄り添いあっても生活は続く。ソーリャの父は犯罪者同然に入管に収容される。ソーリャの大学進学の夢は、圧倒的な生活苦に押しつぶされ、生活のためにパパ活を、必死に稼いだバイト代は生活費に消えていく。
それでも創造していくこと。それを懸命に本作は物語っている。聡太は絵を描く。ソーリャも一緒になってやる。三男のロビンは拾い集めたゴミで幸せな家族・生活をつくる。創造するとは、理想を、未来を志向することである。

クルド人が、サーリャらが希望をもって生きれる社会へ。彼らは創造する。鑑賞者である私たちも創造する。それは祈りに近いかもしれない。けれどそんな力を本作は持ち合わせているように思えるのである。

別稿
本作が素晴らしいことは言うまでもないが、物語では描かれないことにも着目する必要がある。それは彼らの生きる舞台を社会から生活へ横滑りにすることで、問題を社会構造の変革からアイデンティティの理解に還元してしまうことである。
確かにアイデンティティをリアリズムに描くことは必要なことである。クルド人の理解が日本で進んでいるとも思わないし、インターセクショナリティは発見されたばかりである。だが本作は社会的な事象を扱いながらも生活に焦点を当て、それにより社会を逆説的に不可視化させているようにも思えるのである。
そもそもクルド人などの「難民」を日本という国家が社会的に包摂する法整備や福祉制度があるならば、彼らの生きづらさは幾分か軽減されるのではないだろうか。私たちは彼らの苦しみを映画の物語として消費する。しかし彼らは社会構造のせいで苦しまなくていいことまでも苦しんでいるように思えるのである。
彼らを支援する弁護人は私の目からみると信用ならない語り手である。そして私たち「日本人」は本作では一切登場せず、社会を変革しようとするアクションは起こらない。そしてクルド人が社会的に排除されるこの社会で呑気に映画をみて生活しているのである。
社会的に排除されているのは、クルド人だけではない。それこそインターセクショナリティでもって人々が立ち現れて、排除されている。それら全てに気遣っていたら、私たちの身が持たないし、映画をみる余裕・生活・自由さえも批判されてしまう。上述のように。そのような厳格さを持ち合わせる必要はないし、その疲れから社会変革に向かう物語から生活を描き、心情理解に向かう物語が紡がれるのだと思う。けれど私は社会変革に向かう物語を希求したいのである。いやそれは私が創造しなくてはいけないのか。一抹の思いがよぎる。