タケオ

オペレーション・フォーチュンのタケオのレビュー・感想・評価

2.3
-ガイ・リッチーは、幼稚で空虚な「ごっこ遊び」に興じ続ける『オペレーション・フォーチュン:ルセ・ド・ゲール』(23年)-

 『007』シリーズの主人公ジェームズ・ボンドは幼稚で空虚なキャラクターだ。イアン・フレミングが考案した「美女と戯れつつ世界中を飛び回り、隠謀を企む悪党たちを退治するマッチョなプレイボーイ」というキャラクターはマチズモ的な価値観に基づく幼稚な空想の産物であり、そこに深みなどまるでない。むしろジェームズ・ボンドというキャラクターに深みなど与えてしまっては、もはやそれはジェームズ・ボンドではないだろう。空っぽだからこそ、多くのファンたちはそこに自らの願望を注ぎ込むことができるのだ。そこを理解できていなかったがために、ダニエル・クレイグ版『007』シリーズは失敗した。幼稚で空虚な空想の産物、ゆえにジェームズ・ボンドは永遠のヒーローなのである。
 クリストファー・ノーランやマシュー・ヴォーンなど多くのボンクラ監督たちが「ボクの考えた007ごっこ」に興じている中で、幼稚で空虚というジェームズ・ボンドの本質に最も接近できたのはガイ・リッチーであろう。ガイ・リッチーの映画はいつだって「ごっこ遊び」だ。書き割り程度の設定しか与えられていないキャラクターたち、チャカチャカとした目まぐるしいアクションと編集、そしてカギカッコつきの'小粋'なセリフとミュージック。『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』(98年)を発表して以降なにかとクエンティン・タランティーノと比較されがちなガイ・リッチーだが、彼がタランティーノほど突き抜けた作品を制作できたためしは1度もない。タランティーノと比べると映画史への造詣もエンターテインメントへの信頼も浅いガイ・リッチーの作品は、常に幼稚で空虚な「ごっこ遊び」に留まる。しかし、どこまでも幼稚で空虚な「ごっこ遊び」に留まるがゆえに、ガイ・リッチーはジェームズ・ボンドの本質へと近づくことができるのだ。
 しかし、ジェームズ・ボンドの本質に限りなく接近こそすれど、どうしてもガイ・リッチーの作品が『007』シリーズになり得ないのは何故だろうか?本作『オペレーション・フォーチュン:ルセ・ド・ゲール』(23年)は、その理由を教えてくれる最適のテキストだ。
 物語自体はオーソドックスなものである。MI6エージェントのオーソン・フォーチュン(ジェイソン・ステイサム)がCIAエージェントのサラ(オーブリー・プラザ)と手を組み、世界を破滅させかねないハイテク技術の売買を目論む武器商人を阻止しようと奔走する。オーソンはガイ・リッチーの考えるジェームズ・ボンド。サラはボンド・ガール。そしてヒュー・グランド扮する武器商人グレッグは、往年の『007』シリーズに頻繁に登場するエキセントリックなブリティッシュ・ヴィランの典型だ。オーソンたちは身分を偽り、グレッグのパーティーに潜入。バレるかバレないかの駆け引きの末、事件は思わぬ展開を見せ始める。所々『ミッション・イン・ポッシブル』シリーズの影響もみてとれるが、これが『007』でなくてなんだというのか?本作でもガイ・リッチーは、嬉々として「ボクの考えた007ごっこ」に興じている。
 しかし、どこまでいってもそれは「ごっこ遊び」に留まるものであり、ガイ・リッチーの作品がそれ以上のものになることはやはりない。例えばウディ・アレンは、自らがフェデリコ・フェリーニになれない苦悩を芸術へと昇華することができる。チャウ・シンチーは、自らがブルース・リーになれない絶望を娯楽へと昇華することができる。だがガイ・リッチーは「ボクの考えた007ごっこ」に満足し、それを芸術や娯楽へと昇華しようとはしない。無駄に『明日に向かって撃て!』(69年)の映像を差し込み、意味もなく『ゆかいなフレディ家』シリーズ(69~74年)や『タイタニック』(97年)の小ネタを放り込まずにはいられないガイ・リッチーは、結局コメディへと逃げてしまうのだ。
 幼稚で空虚な「ごっこ遊び」に興じるガイ・リッチーはジェームズ・ボンドの本質に接近することはできるが、しかし『007』シリーズはコメディではない。曲がりなりにもイアン・フレミングの美学が根底にある『007』シリーズは娯楽であり、そして芸術なのだ。「ごっこ遊び」と「娯楽」の線引きができずコメディへと逃げ続けるガイ・リッチーの作品に、ファンが願望を注ぎ込めるほどの器はない。そこにあるのはガイ・リッチーの幼稚で空虚な自己満足だけなのだ。
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