ろくすそるす

希望の街のろくすそるすのネタバレレビュー・内容・結末

希望の街(1991年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

 映画の中に一つの世界を構築する。その試みは、エドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』がまさにそうであったけれど、この映画は遊び心に溢れた名作『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』でインディペンデント映画の旗手として名を挙げ、炭坑を舞台にした『メイトワン』の映画史に残るラスト一〇分の素晴らしすぎる「銃撃戦」のシーンによって、一部の映画好きの心を鷲掴みにしたジョン・セイルズによるあまりにも巨大な大傑作(マスターピース)だった。
 アメリカのある都市、「L街」を舞台に、もの凄い情報量のストーリーが猛スピードで進行するのだが、それが観るものにとって苦痛を感じさせないのは、「群像劇」としての構成が巧みに計算されているからだろう。

 家族のために市長にへいこらする街の建築会社社長のジョー・リノルディとその息子で、仕事にやる気をなくし「何かでかい事が起こる予感」を信じ、ふらふらしているニッキー。彼らを中心に街で起こった二つの出来事(黒人少年が白人の大学教授の男に性的な暴行を受けたと証言したことから起こる黒人たちの権利の運動と街の電気屋でニッキーとその仲間の不良青年たちが強盗に失敗した事件)が、街の再開発を狙う権威バッチ市長、ニッキーの高校時代の上級生でバツイチの母・アンジェラ、車の修理工でチンピラを仕切るカール(セイルズ本人!)、電気屋のデブ眼鏡・アンソニー、パトロールをする警官二人組、街を彷徨く知的障害者、黒人市議会議員、などの人物たちに影響をもたらし、これらの人々が相互に巧妙にかかわり合い始める。
 街の不良少年から老政治家まで、お偉方から中流階級、貧困の者まで、ここには30以上の様々な人間が登場する。その人間たちの怒り、憤り、無気力、悲哀、焦り、喜び、様々な感情が画面に畳みかけてくる(だが、決してお涙頂戴のようないやらしさはない)。
 無論、お話が進行する中で、スラムや人権などのアメリカの抱える問題が次々と浮き彫りにされ、これが社会派セイルズ流のアメリカ論になっているのは言うまでもないが、生の「人間」が活き活きとして画面に登場するように、素晴らしく「人間」がリアルに描けていることこそが、この作品の一番の魅力であるのだと思う。
 特に顕著なのは、市議会議員ハイムズの妻が無理をしている夫への気遣いを示す台詞、ニッキーが兄の死をバスケットボールをするかつて兄の対戦相手であった黒人青年に話す短いあの印象的なシーンのぐっとくる哀愁感、終盤の黒人少年と大学教授とのランニングをしながらのあの短い会話、警察にマークされている不良少年ラミレスの家が「とある理由」で火災に見回れた後の警官二人のちょっとした会話、このような細部をとってみても、とても上手く作られていることがわかる。

 ニッキーのベトナムで戦死した兄を巡る事の真相の衝撃、そしてラストの父子のやりとり。希望とはほど遠いようなこの街でも、それでも絶望とまでは言い切れない、ほんの少しの明るい将来への糸口が転がっていた。だが、この父子の希望は……。
これぞ映画だと思わせられる傑作!